がないので、たまには客につれられ、汚い桝《ます》のなかで行火《あんか》に蒲団《ふとん》をかけ、煎餅《せんべい》や菓子を食べながら、冬の半夜を過ごすこともあったが、舞台の道化にげらげら笑い興ずる観衆の中にあって、銀子はふと他国ものの寂しさに襲われたりした。
分寿々廼家《わけすずのや》というその芸者屋では、銀子より一足先に来た横浜ものの小寿々《こすず》という妓《こ》のほかに、仕込みが一人、ほかに内箱の婆《ばあ》やが一人いて、台所から抱えの取締り一切を委《ゆだ》ねられていたが、もと台湾の巡査に片附いて、長く台北で暮らし、良人《おっと》が死んでから二人の子供をつれて、郷里へ帰り、子供を育てるために寿々廼家で働いているのだったが、飯も炊《た》けば芸者の見張りもし、箱をもってお座敷へも上がって行き、そのたびに銀子が気を利かし二円、三円、時には五円も祝儀《しゅうぎ》をくれるのだったが、その当座はぺこぺこしていても鼻薬が利かなくなると、お世辞気のない新妓《しんこ》の銀子に辛《つら》く当たり、仮借《かしゃく》しなかった。銀子も体に隙《ひま》がないので、拭《ふ》き掃除に追い立てられてばかりもいず、夜床についてから読書に耽《ふけ》ったりして、寝坊をすることもあり、時には煩《うる》さがって、わざと髪結いさんの家で、雑誌を読みながら時間を潰《つぶ》したりした。すると内箱の婆やは容赦せず、銀子の顔を見ると、いきなり呶鳴《どな》るのだった。
「新妓《しんこ》さん、お前に便所を取っておいたよ。早く掃除してしまいな。」
この辺は便所は大抵外にあり、板をわたって行くようになっていたが、氷でつるつるする庭石をわたり、井戸から汲《く》んで来た水を、ひびの切れた手を痺《しび》らせながら雑巾《ぞうきん》を搾《しぼ》り、婆やの気に入るように掃除するのは、千葉で楽をしていた銀子にとってかなり辛い日課であった。しかしそれも馴《な》れて来ると自分で雑巾がけをしない日はかえって気持がわるく、便所の役をわざわざ買って出たりした。
お神が銀子に義太夫《ぎだゆう》の稽古《けいこ》をさせたのは、ちょうど倉持の話が決まり、この新妓に格がついたころのことだったが、お神も上方から流れて来た、五十年輩の三味線弾《しゃみせんひ》きを一週に何度か日を決めて家へ迎え「揚屋《あげや》」だの「壺坂《つぼさか》」だの「千代萩《せんだいはぎ》」に「日吉丸《ひよしまる》」など数段をあげており、銀子も「白木屋」から始めた。銀子の声量はたっぷりしていた。調子も四本出るのだったが、年を取ってからも、子供々々した愛らしい甘味が失《う》せず、節廻しの技巧に捻《ひね》ったところや、込み入ったところがなく、今一と息と思うところであっさり滑って行くので、どっちり腹で語る義太夫にも力瘤《ちからこぶ》は入らず、太《ふと》の声にはなりきらないので、師匠を苛々《いらいら》させ、ざっと一段あげるのにたっぷり四日かかったのだったが、その間に「日吉丸」とか「朝顔」とか「堀川」、「壺坂」など、お座敷の間に合うようにサワリを幾段か教わった。
しかしこの土地へ来て、一番銀子の身についたのは読書で、それを教えてくれたのは、出入りの八百屋《やおや》であった。八百屋はこの花街から四五町離れた、ちょうど主人の猪野の本家のある屋敷町のなかに、ささやかな店を持ち、野菜を車に積んで得意まわりをするのだったが、土地で一番豊富なのは豆のもやしと赤蕪《あかかぶ》であり、銀子は自分も好きな赤蕪を、この八百屋に頼んで、東京へ送ったりしたことから懇意になり、風呂《ふろ》の帰りなどに、棒立ちに凍った手拭《てぬぐい》をぶらさげながら、林檎《りんご》や蜜柑《みかん》を買いに店へ寄ったりした。彼はもとからの八百屋ではないらしく、土地の中学を出てから、東京で苦学し、病気になって故郷へ帰り、母と二人の小体《こてい》な暮しであったが、帳場の後ろの本箱に、文学書類をどっさり持っていた。独歩だとか漱石《そうせき》とかいうものもあったが、トルストイ、ドストエフスキー、モオパサンなどの翻訳が大部を占め、中央公論に婦人公論なども取っていた。
「こういう処《ところ》にいると、本でも読まんことには馬鹿になってしまうからね。僕は八百屋だけれど、読書のお蔭《かげ》で生効《いきがい》を感じている。貴女《あなた》も寂しい時は本を読みなさい。救われますよ。」
顔の蒼《あお》い青年八百屋は、そう言って、翻訳ものをそっと措《お》いて行った。
五
最初おいて行ったのは、涙香《るいこう》の訳にかかるユーゴーの「噫《ああ》無情」で、「こういうところから始めたらいいがすぺい。」
とそう言って、手垢《てあか》のついたその翻訳書を感慨ふかそうに頁《ページ》を繰っていた。
寿々龍の銀子は座敷も暇
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