がはずんで露骨になり、人の好い師匠が驚いて、傍へ来て聴耳《ききみみ》を立てたりすると、親父は煩《うるさ》そうに、
「そこに何してるんだ。お前に用はない。あっちへ行っててくれ。」
 と慳貪《けんどん》に逐《お》っぱらわれ、彼女も度を失い、すごすご台所へ立って行くのであった。
 ちょうどそれと前後して、抱えの栄子が弁士の谷村天浪と深くなり、離れがあいていたところから、そこを二人の愛の巣に借りていたのて、藤本も人の出入りがしげくなり、若い弟子たちやファンの少女たちが頻繁《ひんぱん》に庭を往来し、そこに花やかな一つの雰囲気《ふんいき》が醸《かも》されていた。
「あんなの幸福な恋愛とでもいうのかしら。」
 銀子は思った。彼女は映画は飯より好きだったし、大学を中途で罷《や》めただけに、歴史の知識があり、説明に一調子かわったところのあるこの弁士にも好感はもてたが、その雰囲気に入るには、性格が孤独に過ぎ、冷やかな傍観者であった。
 何よりもせっかく入れた師匠に意地がなく、銀子の顔色をさえ見るというふうなので、世間への障壁にはなっても、銀子自身の守りにはならなかった。

      十八

 銀子はある暑い日の晩方、今そこの翫具屋《おもちゃや》で買ったばかりのセルロイドの風車を赤ん坊に見せながら、活動館の前に立って、絵看板を見ていると、栗栖の家の婆《ばあ》やがやって来て、銀子を探していたものと見え、今お宅へ行ったらお留守で、赤ちゃんを抱いているから、どこか近所にいるだろうというから見に来たが、
「あれ貴女《あなた》のお母さんですか。」
 と訊《き》くのだった。
「そうよ。」
「この赤ちゃんは。」
「私の赤ん坊よ。」
 銀子は笑談《じょうだん》を言ったが、正直な婆やはちょっと真《ま》に受け、「まさか」と顔を見比べて笑っていた。
 映画の絵看板は「裁《さば》かるるジャンヌ」であった。ドムレミイの村で母の傍で糸を紡《つむ》いでいたジャンヌ・ダークが、一旦天の啓示を受けると、信仰ぶかい彼女は自らを神から択《えら》ばれた救国の使徒と信じきり、男装して馬をオルレアンの敵陣に駆り入れるところや、教会の立場から彼女の意志を翻させようとするピエール・コオションの厳《きび》しい訊問《じんもん》を受けながら、素直にしかし敢然と屈しなかったこの神がかりの少女が、ついに火刑の煙に捲《ま》かれながら、「私の言葉は神の声である」と主張し通して焚《や》かれて行く場面や、ジャンヌについて何も知らないながらに、画面から受ける彼女の刺戟《しげき》は強かった。そこへ婆やが来たのであった。
「何だかあんたに話があるそうですよ。瀬尾|博士《はかせ》も来ていられますから、急いで……。」
 婆やはそう言って帰って行った。
 銀子は何の話かと思い、赤ん坊を家《うち》において行ってみると、栗栖は博士とビールを呑《の》みながら洋食を食べていたが、銀子の分も用意してあった。
「まあ、こっちへ来たまえ。飯でも食いながらゆっくり話そう。」
 五十年輩の瀬尾博士は、禿《は》げかかった広い額をてかてかさせていたが、どうしたのか、銀子から目をそらすようにしていた。栗栖は、しばらくするとちょっと腕時計を見て、
「それじゃ僕はちょいと行って来ます。今日は謡《うたい》の稽古日《けいこび》なのでね。お銀ちゃんもごゆっくり。」
 と銀子にも言葉をかけて出て行った。
「何ですの、お話というの。」
 銀子はフォークも取らずに訊《き》いてみたが、博士に切り出されてみると、それはやはりあの問題で、博士はこの結婚に自分も賛成であったことを述べてから、
「はなはだしいのは君に赤ん坊があるなんて、途方もないデマも飛んでいるくらいだが、そんなことはどうでもいいとして、一つ真実《ほんとう》のことを私にだけ言ってもらえないかね。よしんばそういう事実があるとしても、それは君の境遇から来た過失で、君の意志ではあるまいから深く咎《とが》めるには当たらないのだが、しかし事実は一応明らかにして、取るべき処置を講じなければならないんだ。」
 銀子は自身の愚かさ弱さから、このごろだんだんディレムマの深い係蹄《わな》に締めつけられて来たことに気がつき、やはり私は馬鹿な女なのかしらと、自分を頼りなく思っていた。自分の意志でなかったにしても、親たちを引き寄せたりしたことは、何といっても抜き差しならぬ羽目に陥《お》ち込んだものであった。しかし彼女は単純に否定した。
「そんなことありません。全然|嘘《うそ》です。」
「そうかね。しかし君の親たちも家中あの近くへ引っ越して来て、君はその隣に一軒もっているそうじゃないか。」
「お父さん馬で怪我《けが》して、商売できなくなったもんですから、呼び寄せたんですわ。離れは栄子さんたちが入っていて家が狭いんです。それで裏続きの
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