家があいていたから、私が時々|寝《やす》みに行くだけですの。」
銀子は何とかかとか言って否定しつづけたが、博士は栗栖がこのごろ仕事が手につかず、手術を怠けるので、県立病院にも穴があき、自分の立場も困るからと、だんだん事情を訴えるのだったが、一旦否定したとなると、銀子も今更恥を浚《さら》け出す気にはなれず、博士をてこずらせた。
「君があくまで否定するとなると、遺憾《いかん》ながらこの話は取消だね。君はそれでもいいのかね。それとももう一度考え直して、実はこれこれの事情だからこういうふうにしたいとか、私たち第三者の力で、何とか解決をつけてもらいたいとか、素直に縋《すが》る気持にはなれないものかね。」
博士は噛《か》んでくくめるように言うのだったが、銀子は下手に何か言えば弁解みたようだし、うっかり告白してしまった時の後の気持と立場も考えられ、終《しま》いに口を噤《つぐ》み硬《かた》くなってしまった。博士も、堪忍袋の緒を切らせ、ビールの酔いもさめて蒼《あお》くなっていた。
十九
「裁かるるジャンヌ」を見て来た一夜、ちょうどそれが自分と同じ年頃の村の娘の、世の常ならぬ崇高な姿であるだけに、銀子は異常な衝動を感じ、感激に胸が一杯になっていた。強い信仰もなく、烈しい愛国心もない自分には、とても及びもつかないことながら、生来の自分にも何かそれと一味共通の清らかさ雄々しさがあったようにも思われ、ジャンヌを見た途端に、それが喚《よ》び覚《さ》まされるような気持で、咀《のろ》わしい現実の自身と環境にすっかり厭気《いやき》が差してしまうのだった。
その晩から、銀子は蘇生《そせい》したような心持で、裏の家《うち》の二階に閉じこもり、磯貝の来そうな時刻になると、格子戸《こうしど》に固く鍵《かぎ》を差し、勝手口の戸締りもして、電気を消し蚊帳《かや》のなかへ入って寝てしまった。しかし呼び鈴が今にも鳴るような気がして神経が苛立《いらだ》ち、容易に寝つかれないので、今度は下へおりて押しても鳴らないように、呼び鈴に裂《きれ》をかけておいたりした。
うとうととしたと思うと、路次に跫音《あしおと》が聞こえ、呼び鈴の釦《ボタン》を押すらしかったが、戸を叩《たた》く音もしたと思うと、おいおいとそっと呼ぶ声もしていた。隣に親たちがいるので、彼もそれ以上戸を叩かず、すごすご帰って行くのだったが、いつもそれでは済まず、木槿《もくげ》の咲いている生垣《いけがき》を乗りこえ、庭へおりて縁の板戸を叩くこともあった。
「お前がそれほどいやなものなら、お母さんも無理に我慢しろとは言わない、きっぱり話をつけたらいいじゃないか。」
ある晩も座敷から酔って帰った銀子が寝てから、磯貝が割れるほど戸を叩き、母が聞きかね飛び出して来て、銀子に戸を開けさせ上にあげたが、白々明けるころまでごたごたしていたので、彼女は磯貝の帰るのを待って、銀子に言うのだった。銀子は目を泣き腫《は》らしていた。
「だから私きっぱり断わったのよ。こんな処《ところ》にいるもんかと思ったから。そしたら、あの男も今まで拵《こしら》えてやったものは、みんな返せと言っていたわ。」
「ああ、みんな返すがいいとも。そんなものに未練残して、不具《かたわ》にでもされたんじゃ、取返しがつかない。」
気の早い銀子の父親が、話がきまるとすぐ東京へ飛び出して行き、向島の請地《うけじ》にまだ壁も乾かない新建ちの棟割《むねわり》を見つけて契約し、その日のうちに荷造りをしてトラックで運び出してしまい、千葉を引き払った銀子たちがそこへ落ち着いたのは、夜の八時ごろであった。あの町には、あれほど愛し合った栗栖もいるので、立ち去る時、何となし哀愁も残るのだったが、銀子は後を振り返って見ようともしなかった。
足を洗った銀子に、一年半ばかり忘れていた靴の仕事が当てがわれ、彼女は紅や白粉《おしろい》を剥《は》がし、撥《ばち》をもった手に再び革剥《かわそ》ぎ庖丁《ぼうちょう》が取りあげられた。父はそっちこっちのお店《たな》を触れまわり、註文《ちゅうもん》を取る交渉をして歩いた。
「馬鹿は死ななきゃ癒《なお》らない。」
銀子はその言葉に思い当たり、なまじい美しい着物なんか着て、男の機嫌《きげん》を取っているよりも、これがやはり自分の性に合った仕事なのかと、生まれかわった気持で仕事に取りかかり、自堕落に過ごした日の償いをしようと、一心に働いた。彼女の造るのは靴の甲の方で、女の手に及ばない底づけは父の分担であり、この奇妙な父子《おやこ》の職人は、励まし合って仕事にいそしむのだった。
その時になっても、父親の持病は綺麗《きれい》さっぱりとは行かず、二日仕事場にすわると、三日も休むというふうで、小山で働いていた妹たちも健康を害《そこ》ねて家で休んでお
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