るのだったが、何となし家《うち》を見たいような気がして、一と思いに乗ってしまった。
「私お父さん怪我《けが》しているのに、一遍も見舞に行かないから、急に行きたくなって。」
「そうか。君の家はどこだい。」
「錦糸堀なの。」
「商売でもしているの?」
「そう。靴屋。」
「靴屋か、ちっとも知らなかった。」
「私だって靴縫うのよ。年季入れたんですもの。」
「君が。女で? 異《かわ》ってるね。」
「東京に二人いるわ。」
「お父さんの怪我は?」
「馬から落ちたの。お父さんは馬マニヤなの。いい種馬にかけて、仔馬《こうま》から育てて競馬に出そうというんだけれど、一度も成功したことないわ。何しろ子供はどうなっても馬の方が可愛《かわい》いんだそうだから。」
「靴が本職で馬が道楽か。けどあまり親に注《つ》ぎこむのも考えものだね。」
そのうち綿糸堀へ来たので、銀子はおりてしばらく窓際《まどぎわ》に立っていた。このころ銀子の家族は柳原からここへ移り、店も手狭に寂しくなっていた。しかし製品は体裁よりも丈夫一方で、この界隈《かいわい》の工場から、小松川、市川あたりへかけての旦那衆《だんなしゅう》には、親爺《おやじ》の靴に限るという向きもあって、註文《ちゅうもん》は多いのであった。靴紐《くつひも》や靴墨、刷毛《はけ》が店頭の前通りに駢《なら》び、棚《たな》に製品がぱらりと飾ってあったが、父親はまだ繃帯《ほうたい》も取れず、土間の仕事場で靴の底をつけていた。
「もういいの。」
「ああお前か。まだよかないけれど、註文の間に合わそうと思って、今日初めてやりかけの仕事にかかってみたんだが、少し詰めてやるてえと、頭がずきんずきん痛むんでかなわねえ。」
内を覗《のぞ》いてみると、あいにく誰もいなかった。
「誰もいないの。」
「お母さんは巣鴨《すがも》の刺《とげ》ぬき地蔵へ行った。お御符《ごふ》でも貰《もら》って来るんだろう。」
父親はそう言って仕事場を離れ、火鉢《ひばち》の傍《そば》へ上がって来た。
「時ちゃんや光《みっ》ちゃんは?」
「時ちゃんたちは、小山の叔母《おば》さんとこへ通ってる。あすこも大きくしたでね。」
小山の叔母さんというのは、母親が十三までかかっていた本家の娘の市子のことであった。市子はその時分|日蔭者《ひかげもの》の母親が羨《うらや》ましがったほど幸福ではなく、縁づいた亭主《ていしゅ》に死なれ、姑《しゅうとめ》との折合いがわるくて、実家へ帰ったが、実家もすでに兄夫婦親子の世界で居辛《いづら》く、東京へ出て銀子の柳原の家に落ち着き、渋皮のむけた色白の、柄が悪くなかったので、下町の料亭《りょうてい》などに働き、女中|頭《がしら》も勤めて貯金も出来たところで、銀子の家と近所付き合いの小山へ縁づいたのであった。小山は日本橋のデパアト納めの子供服を専門に引き受けた。
「珍しいな。お前が出て来るなんて。どうだ変わったこともないか。」
父親はそう言ってお茶をいれ、茶箪笥《ちゃだんす》をあけて、小皿にあった飴《あめ》を出した。
「あの人たちも働いてるな。」
銀子は思った。芸者も辛いが、だらしない日々を送り、体に楽をしているのはすまないような気持だった。
「こないだ用があって、三里塚《さんりづか》へ行ってみたが、今年は寒かったせいか、桜がまだいくらかあったよ。今年は三里塚へお花見に行くなんて、時ちゃんたち言っていたけれど、あの雨だろう。」
「もう菖蒲《あやめ》だわ。」
銀子は家へ来てみて一層|侘《わび》しくなり、逝《ゆ》く春の淡い悩みに浸された。
「何か話でもあったかい。」
父親は心配そうに訊《き》いた。
「ううん。」
銀子は胸につかえるものを感じ、そういって起《た》ちあがると、そっと二階へあがってみた。
十三
二階は上がり口が三畳で、押入れに置床のある次ぎの六畳に古い箪笥があり、父は敬神家とみえて天照皇大神の幅がかかっていた。東郷大将の石版刷も壁にかかっていたが、工場通いと学校通いと、四人の妹がここで学課の復習もすれば寝床も延べるのだった。
銀子は物干へ出られる窓の硝子窓《ガラスまど》を半分開けて、廂間《ひさしあい》から淀《よど》んだ空を仰ぎ溜息《ためいき》を吐《つ》いたが、夜店もののアネモネーや、桜草の鉢《はち》などがおいてある干場の竿《さお》に、襁褓《おしめ》がひらひらしているのが目についた。
銀子はまだ赤ん坊の顔も見ず、母の妊娠していたことすら知らずにいたのだったが、なるほどそう言えば正月に受け取った時ちゃんの年始状の端に、また妹が一人|殖《ふ》えました、どうして家《うち》には男の子が出来ないんでしょうなどと書いてあったが、余所事《よそごと》のような気持で、嬉《うれ》しくも悲しくもなかった。柳原時代の前後、次ぎ次ぎに産ま
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