ような花も、いつとはなし腐ってしまい、椎《しい》の木に銀鼠色《ぎんねずいろ》の嫩葉《わかば》が、一面に簇生《そうせい》して来た。人気《ひとけ》のない時は、藪鶯《やぶうぐいす》が木の間を飛んでいたりして今まで自然の移りかわりなどに関心を持とうともしなかった銀子も、栗栖の時々書いて見せる俳句とかいうものも、こういうところを詠《よ》むのかいなと、ぼんやり思ってみたりして、この家も自分のものか借家なのか、訊《き》いてみたこともなかったけれど、来たてに台所と風呂場《ふろば》の手入れをしたりしていたところから見ると、借家ではなさそうでもあった。それに金ぴかの仏壇、槻《けやき》の如輪目《じょりんもく》の大きな長火鉢《ながひばち》、二|棹《さお》の箪笥《たんす》など調度も調《ととの》っていた。磯貝は見番の役員で、北海道では株屋であったが、ここでは同業者へ金の融通もするらしかったが、酒とあの一つのことにこだわりさえしなければ、好意のもてなくもない普通の人間で、銀子も虚心に見直す瞬間もあるのだった。死んだマダムもこの親爺《おやじ》も両親は土佐の士族で、産まれは悪くもなかった。
「これが自分のものになるのかしら。」
銀子も淡い慾がないわけでもなかったが、それも棒が吭《のど》へ閊《つか》えたようで、気恥ずかしい感じだった。
ある日も親爺が見番で将棋を差している隙《すき》に、裏通りをまわって栗栖の家の門を開けた。栗栖はちょうど瓶《かめ》に生かったチュリップを、一生懸命描いているところだったが、
「お銀ちゃんか。どうしたい。しばらく来なかったね。」
栗栖はパレットを離さず、刷毛《はけ》でちょいちょい絵具を塗っていた。
銀子は休業届を出し、ずっと退《の》いていたので、栗栖は座敷では逢《あ》うこともできなかったが、銀子も少し気の引けるところもあって、前ほどちょいちょい来はしなかった。やがて彼はパレットを仕舞い、画架も縁側へ持ち出して、古い診察着で間に合わしている仕事着もぬいで、手を洗いに行って来ると、
「ちょうどいいところへ来た。田舎《いなか》から大きな蟹《かに》が届いたんだ。」
栗栖は福井の産まれで、父も郡部で開業しており、山や田地もあって、裕福な村医なのだが、その先代の昔は緒方洪庵《おがたこうあん》の塾《じゅく》に学んだこともある関係から、橋本左内の書翰《しょかん》などももっていた。
「そんな画《え》お金になるの。」
「そんな画とは失礼だね。これでも本格的な芸術品だよ。技術はとにかくとしてさ。」
洋楽のレコオドを二三枚かけ、このごろ栗栖が帝劇で見た、イタリイの歌劇の話などしているうちに、食事ができ、銀子が見たこともない茨蟹《いばらがに》の脚の切ったのや、甲羅《こうら》の中味の削《そ》いだのに、葡萄酒《ぶどうしゅ》なども出て、食べ方を教わったりした。銀子は栗栖の顔をちょいちょい見ながら、楽しそうにしていたが、栗栖がちらちら結婚の話に触れるので、蟹の味もわからなかった。
「来月になると、休暇を貰《もら》って田舎へ行って来るよ。親爺は田舎へ帰って来いと言うんだけれど、僕もそんな気はしないね。」
「遠いの? どのくらい?」
「遠いさ。君も一度はつれて行くよ。実はその話もあるしね。」
銀子は頷《うなず》いていたが、やっぱり自分も大胆な嘘吐《うそつ》きなのかしらと、空恐ろしくもあった。
「しかしいつかの晩ね、僕も三年がかりで、聞いてみようと思いながら、まだ訊かなかったけれど、あの晩は何だかよほど変だったね。」
「そうお。」
「まさか毒薬を捜していたわけじゃないだろうね。」
「そうじゃないの。」
銀子は打ち明けて相談したら、何とか好い解決の方法があるかも知れず、独りで苦しんでいるより、その方が腫物《はれもの》を切開して膿《うみ》を出したようで、さっぱりするかも知れないと、そう思わないこともなかったが、それを口へ出すのは辛《つら》かった。死んでも言うものかと、そんな反抗的な気持すら起こるのだった。人に謝罪《あやま》ったり、哀れみを乞《こ》うたりすることも、彼女の性格としては、とても我慢のならないことであった。痩《や》せ我慢とは思いつつも、彼女には上州ものの血が流れていた。不断は素直な彼女であったが、何か険しいものが潜んでいた。
栗栖も追窮しはしなかった。
十二
四月になってから、栗栖は郷里へ帰省し、妹が一人いると言うので、銀子は花模様の七珍《しっちん》の表のついた草履《ぞうり》を荷物の中に入れてやったが、駅まで送って、一緒に乗ってしまえば、否応《いやおう》なしに行けるのにと思ったりした。
しかし自分の取るべき方嚮《ほうこう》について、親たちに相談しようというはっきりした考えもなかったし、話してみてもお前の好いようにと言うに決まってい
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