に木元がふらりとやって来たのよ。」
 と話した。
「私が風呂から帰って来ると、姐《ねえ》さんが木元さんが来たというのよ。ちょっと貴女《あなた》に話があるから、うき世で待っているとか言ってたわ、と言うのよ。私もどうしようかと思ったけれど、逃げを張るにも当たらないことだから、春芳《はるよし》さんを抱いて行ってみたの。ところがしばらくの間に汚い姿になっているのよ。ワイシャツも汚《よご》れているし、よく見ると靴足袋《くつたび》も踵《かかと》に穴があいてるの。」
 彼は仲の町の引手茶屋の二男坊であり、ちょうど浅草に出ていた銀子と一緒になった時分には、東京はまだ震災後の復興時代で、彼も材木屋として木場に店をもち、小僧もつかい、友達付き合いも派手にやっていた。しかし遊びや花が好きで、金使いが荒く、初めての銀子の夫婦生活にすぐに幻滅が来た。
「それからどうした。」
 均平はきいた。
「別にお金の無心でもないの。坊っちゃん育ちだから、金を貸してくれとも言えないのね。ただ今までは悪かったと言ってるの。」
「君は甘いから小遣《こづかい》でもやったんだろう。」
「まさか。さんざん無駄奉公させられたんですもの。その辺まで付き合ってくれないかと言うから、お金はいけないから、靴足袋の一足も買ってやりましょうと思って、上野の松坂屋まで行って、靴足袋とワイシャツを買って、坊やと三人で食堂で幕の内を食べて別れたけれど、男もああなると駄目ね。何だかいい儲《もう》け口があるから、北海道へ行くとか言ってたけれど、その旅費がほしかったのかも知れないわ。」
「未練もあるんだろう。」
「そんなこだわりはないの。それがあればいいけれど、ただ何となしふらふらしてんのね。」
 それからまた大分月日がたってから、銀子はまた北海道から電報が来て、金の無心をして来たというのであった。
「北海道のどこさ。」
「どこだか忘れてしまったけれど、何でも、病気をして、お金もなくなるし、帰る旅費がないから、一時立てかえてくれというような文句だったわ。」
「いくらぐらい?」
「それがほんの零細金なの。よほど送ろうかと思ったけれど、癖になるから止した方がいいと父さん(抱えぬし)が言うから、仲の町のお母さんの処《ところ》へ電話で断わっておいたわ。」
 その時分になると、銀子も座敷に馴《な》れ、心の痍《きず》もようやく癒《い》えていた。

  
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