を振った。
ホテルへ帰ると、均平はちょうど一ト風呂《ふろ》浴びて来たところであった。
「どうした?」
「方々買いものして駅で別れてしまいましたわ。」
「そう。」
均平は椅子《いす》に腰かけ、煙草《たばこ》にマッチを擦《す》ったが、侘《わび》しい顔をしていた。
「帰るというものを、強いて引っ張って来ても悪いと思ったから。でも富士屋で曹達水《ソーダすい》呑《の》んだり何かして。」
「まあいいさ。一度|逢《あ》っておけば。」
そう言って均平も顔に絡《まつ》わる煙草の煙を払っていた。
時の流れ
一
均平がこの町中の一|区劃《くかく》にある遊び場所に足を踏み入れた時は、彼の会社における地位も危なくなり、懐《ふところ》も寂しくなっていた。銀子はちょっと逢ったところでは、ウェーブをかけた髪や顔の化粧が、芸者らしくなく、態度や言葉|遣《づか》いもお上品らしく、いくらか猫《ねこ》を被《かぶ》っていた。芸者がることは彼女も嫌《きら》いであり、ただ結婚の破綻《はたん》で、女にしては最も大切な時代の四年を棒に振ったことは、何と言っても心外であり、再び振り返ろうとも思わなかった。元の古巣へ逆戻りした以上、這《は》いあがるためには何か掴《つか》まなければならなかった。この世界では、二十二三ともなれば、それはもう年増《としま》の部類で、二十六七にもなれば、お婆《ばあ》さんの方で、若い妓《こ》の繋《つな》ぎに呼ばれるか、遊びに年期の入った年輩者の座持ちに呼ばれるくらいが落ちであり、男に苦い経験のある女が男を警戒するように女に失敗した男は用心して深入りしず、看板借りともなれば、どんな附き物があるか解《わか》らなかった。しかし銀子は世帯《しょたい》崩れのようには見えず、顔にもお酌《しゃく》時代の面影が残っており、健康な肉体の持主であった。
「君はこの土地の人のようには見えんね、それに芸者色にもなっていないじゃないか。」
「商売に出ていたのは、前後で六年くらいのものですから。それも半分は芳町《よしちょう》でしたの。」
その時分は銀子もまだ苦い汁《しる》の後味が舌に残りながら、四年間|同棲《どうせい》した、一つ年上の男のことが、綺麗《きれい》さっぱりとは清算しきれずにいた。均平の方が一時代も年が上なので、銀子は物解りのいい相手のように思われるせいか、ある時、
「二三日前
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