りして、照れくさそうに父の側へ寄って来た。
「いらっしゃい。」
 銀子もざっくばらん[#「ざっくばらん」に傍点]に挨拶《あいさつ》した。彼女は客商売をしたに似合わず、性分としてたらたらお愛相《あいそ》のいえない方であった。好いお嬢さんねとか、綺麗《きれい》ねとか肚《はら》に思っていても口には出せないのだった。
「均一さんは。」
「心配するほどのこともなさそうだよ。」
「ここも一杯よ。一番上等の部屋が一つだけしかなかったんですの。でも皆さん食事は。」
「あすこのホテルではひどいものを食わされて、閉口したよ。昼はこっちで食うつもりで。」
 銀子も食堂の開くのを待っていたところなので、ボオイに四人分用意するように頼み、揃《そろ》って食卓に就《つ》いた。食堂の窓からは渚《なぎさ》に沿って走っている鉄道の両側にある人家や木立をすかして、漂渺《ひょうびょう》たる、湖水が見えた。
「大変ですね加世子さん、ずっと付いていらっしゃるんですか。」
 銀子はナプキンを拡《ひろ》げながら、差向いの加世子に話しかけた。
「そういうわけでもないんですわ。あの病院は割と陽気ですから、心配ないんですの。いつでも帰ろうと思えば帰れますの。」
「私今日あたりお電話して、事によったら行ってみようかと思ってたんですけれど、出しぬけでも悪いかと思って。」
「いらっしゃるとよかったわ。いらしたことありませんの。」
「ええ、こっち方面はてんで用のない処《ところ》ですから。この辺製糸工場が多いんです。何でも大変景気のいい処だって……。」
 彼女は岡谷《おかや》あたりの製糸家だという、大尽客の座敷へ出たことなどを憶《おも》い出していた。
「それは前の世界戦の時分のことだろう。今は糸も売れないから、景気のいい時分田をつぶして桑を植えたのと反対に、桑を引っこぬいて米を作ってるんじゃないか。しかしどんな時代でも、農民は土に囓《かじ》りついてさえいれば食いっぱぐれはない。」
 均平はパンを※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、348−上13]《むし》りながら、
「己《おれ》も士族の零落《おちぶれ》の親父《おやじ》が、何か見るところがあったか、百姓の家へもらわれて行くところだったんだ。その百姓は大悦《おおよろこ》びで夫婦そろって貰《もら》いに来たそうだが、生まれた子供の顔を見ると、さすがに手放せなかったそうだ
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