場で見た志賀《しが》の家《や》淡海くらいのものかと思っていたので、頼まれてお義理見をしたくらいだった。しかし沢正の人気は次第に高まり、今あらためて見て芸に油の乗って来たことが解《わか》り、一座を新しく見直したのであった。
 後に銀子も沢正の座敷に一座し、出が出だけに歌舞伎《かぶき》や新派ほど役者の気取りがなく、学生丸出しで、マークの柳に蛙《かえる》の絵を扇子に気軽に描《か》いてくれたり、同じマークの刻まれたコムパクトをくれたりするので、芸者の間にも受けがよく、一座するのを光栄に思うのであった。
「晴《はア》ちゃん、すみませんが、今夜は一つ私に附き合って下さい。姐《ねえ》さんにも通しておきましたから、どうかそのつもりでね。皆さんもお呼びしておきました。たまにはいいでしょう。」
 やがてはねるころになって、瀬川は土産物《みやげもの》などを棧敷へ持ちこみ、銀子が独りでいるところを見て、にやにやしながら私語《ささや》いた。

      十六

 芝居の帰りに、銀子は梅園横丁でお神に別れ、「いやな奴《やつ》」と思いながら、ほかの妓《こ》も行っているというので、教えられた通り、大川端《おおかわばた》に近い浜町の待合へ行ってみた。その時間には若林の来る心配もなかった。彼は病気あがりの銀子が、座敷へ現われるようになってから、またひとしきり頻繁《ひんぱん》に足を運ぶのだったが、ちょうどそのころ経済界に恐慌があり、破産する店もあり、彼も痛手を負い、遊んでも顔色が冴《さ》えず座敷がぱっとしなかった。銀子も傍《そば》で電話を聞きつけていたので、緊張したその表情がわかり、喰《く》いこんだ時の苦悩の色がつくづくいやだった。
「一生株屋なんか亭主《ていしゅ》にするものじゃない。」
 彼女は思った。
 ある時銀子は藤川のお神にちょっとお出《い》でと下へ呼ばれ、若林の傍を離れて居間へ行くと、お神は少しあらたまった態度で、
「若《わ》ーさんもお前《ま》はんが知っての通り、このごろひどい思惑はずれで蒼《あお》くなっていなさる。傍《はた》で見てもお気の毒でならん。お前はんもあの人の世話でどうやら一人前の芸者になったんだから、こういう時に何とか恩返しをしたらどうです。」
 と言われ、銀子は当惑した。
「お前はんに纏《まと》まった金を拵《こしら》えろと言ってみたところで、出来る気遣《きづか》いはありゃしない
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