いやだから、外へ連れ出してくれとか、そこに姐《ねえ》さんがいるから、早くそっちへ退《の》けてくれとか、そうかと思うと、役者の名を口走ったり、芸者の身のうえを呪ったりするのだったが、親の使いでよく明日の米の代を取りに来た妹に言うらしく、気をつけて早くお帰りなどと、はっきり口を利くこともあった。末の娘を負ぶった大きい妹が、二階の三畳に寝ている銀子の傍に坐って、姉の目覚《めざ》めをじっと待っていたことも、彼女の頭脳《あたま》に日頃深く焼きついているのだった。
するうち悲哀に包まれた人々の環視のうちに、注射の利き目は次第に衰え、銀子の目先に黒い幕が垂れ、黒インキのようにどろどろした水の激流に押し流されでもするように、銀子は止め度もなくずるずる深く沈んで行き、これが死ぬことだと思った瞬間に、一切が亡くなってしまった。
十三
しかし銀子の生命の火はまだ消え果てず、二日ばかりすると、医師が動かしてはいけないというのを、彼女の希望どおり春よしの二階から担架でおろされ、寝台車で錦糸堀の家の二階へと移された。医師は途中を危ぶみ、手当をしてくれたうえ、自身付き添ってくれたが、そろそろ両国まで来たと思うと患者は苦しみ、橋の袂《たもと》で休んでまた一本注射したりして、どうにか辿《たど》り着いたのであった。
家では大きい妹の時子も、下の奥の間で寝ていた。あの日彼女は妹を負ぶい、金をもらいに銀子を訪ねて来たのだったが、自動車から抱き降ろされ、真蒼《まっさお》になって二階へ担《かつ》ぎあげられるのを見て肝《きも》を潰《つぶ》し、駈《か》け出して来て家へ泣き込んだのであったが、一家の生命《いのち》の綱と頼む姉が倒れたとなると、七人の家族がこの先きどうなって行くであろうか。幼い彼女の胸にそれがどきりと来て、その晩方から熱があがり、床に就《つ》いてしまったのであったが、生命あって帰って来た姉が、二階へ落ち着くのを見ると、彼女はじっとしておらず、口も利けない姉の手を執って泣いていた。彼女はいやな思いをしながら、幾度梅園小路の春よしを訪ね、姉を表へ呼び出して金を強請《せび》ったか知れないのであった。それほど商売が行き詰まり、母の手元は苦しかったが、それはその時々の食糧や小遣《こづかい》になる零細な金で、銀子は月々の親への仕送りで、いつも懐《ふとこ》ろが寂しく、若林からもらう金も、大部分
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