せき》の度が重なるにつれて、つい絆《ほだ》されやすい人情も出て来て、いつか持株の数が殖《ふ》えて行くのであった。景気の好い時、株屋の某はそれからそれへと棄《す》てがたい女が出来、そっちこっちに家をもたせておいたが、転落して裏長屋に逼塞《ひっそく》する身になっても、思い切って清算することができず、身の皮を剥《は》ぎ酷工面《ひどくめん》しても、月々のものは自身で軒別配って歩き、人を嬉《うれ》しがらせていたという、芝居じみた人情も、そのころにはあり得たのであった。
永瀬の場合は、そうばかりとも言えず、ずっと後に近代的な享楽の世界が関西の資本によって、大規模の展開を見せ、銀座がネオンとジャズで湧《わ》き返るような熱鬧《ねっとう》と躁狂《そうきょう》の巷《ちまた》と化した時分には、彼の手も次第にカフエにまで延び、目星《めぼ》しい女給で、その爪牙《そうが》にかかったものも少なくなかったが、学生時代には、彼も父をてこずらせた青年の一人で、パンや菓子の研究にアメリカヘやられ、青年期をそこに過ごしたので、道楽仕事にも興味があり、大正の末期には、多摩川に大規模の享楽機関を造り、一号格の向島の女にそれをやらせていた。
銀子もためになるお客だから、せいぜいお勤めなさいなぞと、福井楼が出していたある出先の女将《おかみ》に言い含められ、春よしのお神から聞いて、若林のあることも薄々承知の上で出され、すでに三四回も座敷を勤めていたが、そのたびに多分の小遣《こづか》いも貰《もら》い、そうそうは若林に強請《ねだ》りにくい場合の埋合せにしていた。永瀬の今まで手がけたのは、大抵養女か、分けのれっきとした芸者で、丸同然の七三などは銀子が初めなので、格別の面白味もない代りに座敷ぶりも神妙で、外国の話をして聞かせても、一応通じるような感じがあり、何か心を惹《ひ》かれた。彼は手触りが柔らかく、
「晴子さんは一体いくら前借があるのかね。」
とか、
「貴女《あんた》の希望は何だか言ってごらん。」
とか、探りを入れてみるのであった。
永瀬はこの土地で呼ぶばかりでなく、時には神楽坂《かぐらざか》へもつれて行き、毘沙門《びしゃもん》横丁の行きつけの家《うち》で、山手の異《かわ》った雰囲気《ふんいき》のなかに、彼女を置いてみたり、ある時は向島の一号である年増《としま》の家へも連れて行き、彼女を馴染《なじ》ませてみよ
前へ
次へ
全154ページ中135ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング