ぞお買いなさいまし。」
「入って見てもいい?」
「ああいいよ。どれでもいいのを。」
「わーさん見てよ。」
「君の好きなの買えばいいじゃないか。ただし買うならいいのにおし。」
 若林が金をくれるので、銀子は店に入り、あっちこっち見てあるき、
「ねえ――」と振りかえると、彼の姿は見えず、表へ出て見ても影も形も見えなかった。
 彼はそういうことには趣味をもたず、何を買うにも金を吝々《けちけち》しないで、米沢町のどこの店に欲しい小紋の羽織が出ているとか、誰某《たれそれ》のしていたような帯が買いたいとか、または半襟《はんえり》、帯留のような、買ってもらいたいものがあり、一緒に行って見てほしいと思っても、女の買物は面倒くさいから御免だとばかりで、店頭《みせさき》で余計なものを買わせられるよりもと思って、ほどよく金はくれはするが、一度も見立ててくれたことはなかった。
「それが上方気質《かみがたかたぎ》というものなのかしら。」
 銀子は思うのであったが、時に一緒に歩いている時、コンパクトとか下駄《げた》とか、珍しく見立てて買ってくれるかと思うと、決まってそれとほぼ同値の、またはそれより少し優《ま》しの類似の品を一緒に買うのであった。もちろんそれは妻への贈り物であり、彼自身の心の償いであったが、そのたびに銀子はげっそりした。
「何だこいつ。やっぱり私は附けたりなんだ。」
 彼女は寂しくなり、買ったものを地面に叩《たた》きつけたくも思うのだった。
 そのころに、銀子は製菓会社の社長|永瀬《ながせ》に、別の出先で時々呼ばれ、若林よりずっと年輩の紳士だったので、何かしっくりしないものを感じ、どうかと思いながら、疎《おろそ》かにもしなかった。

      七

 この製菓会社も、明治時代から京浜間の工場地帯に洋風製菓の工場をもち、大量製産と広範囲の販路を開拓し、製菓界に重きを成していたもので、社長の永瀬は五十に近い人柄の紳士だったが、悪辣《あくらつ》な株屋のE―某《なにがし》とか、関東牛肉屋のK―某ほどではなくても、到《いた》る処《ところ》のこの世界に顔が利き、夫人が永らく肺患で、茅ヶ崎《ちがさき》の別荘にぶらぶらしているせいもあろうが、文字通り八方に妾宅《しょうたく》をおき、商売をもたせて自活の道をあけてやっていた。それも彼の放蕩癖《ほうとうへき》や打算のためとばかりは言えず、枕籍《ちん
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