っている。」
 お神は船から起《た》ちあがる銀子の姿を見つけ、
「今時分そんな処《ところ》に何しているのさ。早く上がっておいで。」
 銀子は車夫の手に縋《すが》って棧橋へあがり、三人の間に挟《はさ》まって陸《おか》へ上がって来た。
「新潮楼へ電話をかけると、二時間も前に帰ったというし、一時にもなるのにどこをうろうろしているのかと思って、方々捜したんだよ。まさかこんな処へ来ていようとは思わないしさ。あんた死ぬつもりだったの。」
「いいえ。少し呑《の》みすぎて、苦しかったもんですから、河風に吹かれていたんです。」
 銀子は気軽に答え、家へ帰ると急いで寝所へ入ってしまったが、新聞の記事が頭脳《あたま》に絡《まつ》わり、時機を待てと、あれほど言っていた倉持の言葉も思い出され、こごた辺を通過する時、汽車の窓から見える、新婦の生家である、あの蓊鬱《こんもり》した森のなかにある白壁の幾棟《いくむね》かの母屋《おもや》や土蔵も目に浮かんだりして、ああいった人たちはやはりああいった大家でなくては縁組もできないものなのかと、考えたりもした。
 二三日すると銀子もようやく決心がつき、家へ手紙を書いたが、そうなるとせっかく馴染《なじ》んだこの土地も、見るもの聞くものが、不愉快になり、東京から人の来るのが待遠しくてならず、気を紛らせに、家へ遊びに来る写真屋を誘い出して、最後の玉稼《ぎょくかせ》ぎに料亭《りょうてい》へ上がったりした。写真屋は倉持が結婚してからは、好運が急角度で自分の方に嚮《む》きかえり、時節が到来したように思われ、大島の対《つい》の不断着のままの銀子を料亭の庭の松の蔭《かげ》に立たせて、おもむろにシャッ[#底本では「ッ」を、「ソ」を小さくしたものと誤植、427−下8]タアを切るのだったが、二階へあがって来ると、呑めもせぬ酒を注《つ》ぎ、厳《おごそ》かな表情で三々九度の型で、呑み干したり干させたりした。
「そんなことしたって、私|貴方《あんた》の奥さんにならないわよ。」
「いや、僕はおもむろに時機を待つですよ。」
 銀子もこの辺がちょうど好い相手かとも思い、彼のいう通り、誠意に絆《ほだ》される時機が来るように思えたりもするのだったが、差向いでいると、どうにも好感がもてず、「こん畜生!」とつい思うのであった。
 ちょっと引っ係りのあった、芳町の芸者屋の主人が、看板借りの年増《とし
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