で体を縛られ、いやなお客の機嫌《きげん》も取って、月々家へ仕送りもしているのよ。」
 銀子は倉持に言われ、退院後のこの夏二月ばかり仕送りを滞らせたところ、父親がさっそくやって来て、結局旅費や土産《みやげ》なぞに余分な金を使ったのが落ちであった。父は大洋の新鮮な鰹《かつお》や気仙沼の餅々《もちもち》した烏賊《いか》に舌鼓をうち、たらふく御馳走《ごちそう》になって帰って行ったのだったが、ここで食べた鰹の味はいつまでも忘れることができないであろう。
 医院が院長の隠居仕事なので、看護婦の体も閑《ひま》で、彼女の部屋はだだっぴろい家族の住居《すまい》から離れたところにあり、銀子が買って往《ゆ》くケーキなどを摘《つ》まんで本の話や身のうえ話をするのだったが、銀子の汚《よご》れものなぞも洗ってくれた。大河《おおかわ》まで持ち出して行って[#底本では「行つて」と誤植、423−下6]、バケツで水を汲《く》みあげるのが面倒くさく、じかに流れで濯《すす》いだりして、襦袢《じゅばん》や浴衣《ゆかた》を流したりしていた銀子も、それを重宝がりお礼に金を余分に包んだり、半衿や袖口《そでぐち》などを買ってやったりしていた。吝々《けちけち》するのは芸者の禁物であり、辛気《しんき》くさい洗濯や針仕事は忙しい妓《こ》には無理でもあり、小さい時から家庭を離れている銀子は、見ず知らずのこの土地へ来てからは、一度汚したものは大抵古新聞に包んで河へ流すことにしているのだった。
 田舎《いなか》の芸者屋では、抱えの客筋であると否とにかかわらず、最寄りの若い男の出入りすることを、都会のようにはいやがりもしないので、分寿々廼家でも、写真屋や罐詰屋《かんづめや》、銀子たちが顔を剃《そ》りに行く床屋の若い衆や、小間物屋に三味線屋《しゃみせんや》がよく集まった。土地の人の気風は銀子にもよく判らなかったが、表面《うわべ》の愛らしい言葉つきの感じなどと違って、性質は鈍重であり、しんねりした押しの強さが、東京育ちの銀子にずうずうしくさえ思えるのだった。写真屋も銀子をわが物顔にふるまい、罐詰屋も懲りずにやって来た。
「あの青ん造は一体お前の何だい。」
 夏父親がやって来た時、彼は東京へ出るたびに、罐詰を土産《みやげ》に親類か何ぞのように錦糸堀の家《うち》へ上がりこみ、朝からお昼過ぎまで居座る罐詰屋のことを、そんなふうに怒っていた
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