行こうと思っていたからね。寿々《すう》さんがそれで癒ってくれれば、僕の思いが通るというもんです。」
 銀子は梳《す》いた髪をいぼじり捲《ま》きにしてもらい、少しはせいせいして、何か胸がむず痒《がゆ》いような感じで膝《ひざ》のうえで雑誌をめくったりしていたが、小谷さんは新聞にたまった雲脂《ふけ》と落ち毛を寄せて、外へ棄《す》てに行った。
「しかし僕が案じたより、何だか快《よ》さそうじゃないんだかね。」
「ええ、大分いいのよ。」
「そんならいいですが、これは僕を信じて、ぜひ呑《の》んでもらいますよ。わざわざ東京へ寄って、製剤して来たもんだからね。」
「あとで戴《いただ》くわ。それにそんな良い薬なら、東京の妹にも頒《わ》けてやりたいんです。このごろ何だかぶらぶらしているようだから。」
 浦上はそれには返辞もしず、部屋をあちこち動いていた。
「しかし貴女《あんた》も、この商売はいい加減に足を洗ったらどうです。商売している間は、夜更《よふ》かしはする、酒は呑む、体を壊す一方だからね。」
「…………。」
「僕も写真をやるくらいなら、いっそ東京へ出て、少し資本をかけて場所のいいところで開業してみたいと思っておるんだが、そうすれば親父《おやじ》に相談して、貴女の借金も払うから、ぜひ結婚してもらいたいもんだね。貴女はどう思うかね。」
「そうね。そんなこと考えたこともないけれど……。」
「やっぱり倉持がいるから駄目かね。」
 浦上は溜息《ためいき》を吐《つ》き、
「しかしあそこには渡さんという、喧《やかま》しい後見人がいるがね。」
 と呟《つぶや》き、首を傾《かし》げていた。
「いいわよ、そんなこと。」
 銀子は虫酸《むしず》が走るようで、そんな顔をしていた。

      十一

 十月の末、控訴院から大審院まで持って行った猪野の詐欺《さぎ》、横領に関する事件がいよいよ第二審通り決定した旨の電報が入り、渡弁護士の斡旋《あっせん》によって、弁護士の権威五人もの弁論を煩わしたこの係争も、猪野の犯した悪事の割には、事実刑も軽くて済むのにかかわらず、寿々廼家夫婦は今更のように力を落とした。猪野は今一年有余の体刑を被《き》ても、襤褸《ぼろ》を出さないだけの綿密な仕組の下に、生涯裕福に暮らせるだけの用意をしたのであり、体刑は覚悟の前であったはずだが、金を隠匿《いんとく》しない反証にもと、退《ひ》
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