み》の鰹《かつお》の罐詰屋《かんづめや》と銀行の貸出係との商談の席であり、骨も折れないので、二三人の芸者とお料理を運んだりお酌《しゃく》をしたりしていると、廊下を隔てた、見晴らしのいい広間の宴会席の方では、電気のつく時分に、ようやくぼつぼつ人が集まり、晴れやかな笑い声などが起こり、碁石の音もしていた。その話し声のなかに、廊下を通って行く時から、聴《き》いたような声だと思う声が一つあり、ふと栗栖の声を思い出し、よく似た声もあるものだと、聴耳《ききみみ》を立てていたのだったが、錯覚であろうかとも思っていた。まさか栗栖がこの土地へ来ようとは思えなかった。
 十五六人の集まりで、配膳《はいぜん》が始まり、席が定まった時分に、寿々龍の銀子も女中に声かけられ、三十畳ばかりの広間へ入って行き、女中の運んで来た銚子《ちょうし》をもつと、つかつかと正面床の間の方へ行き、土地では看板の古い家の姐《ねえ》さんの坐っている床柱から二三人下の方へ来て、うろ覚えの四十年輩の男から酌をしはじめ、ふと正座の客を見ると、それが思いもかけぬ栗栖であり、しばらくの間に額が少し禿《は》げかかり、色も黒く丸々|肥《ふと》っていた。目と目が合った瞬間おやと思って銀子は視線をそらしたが、栗栖もそっと俛《うつ》むいて猪口《ちょく》を手にした。
 銀子はこうした身の上の恋愛といったようなものを、ほんの刹那《せつな》々々のもので、別れてしまえばそれきり思い出しも出されもしないものと、簡単に片づけていたので、この土地へ来てからはあの葛藤《かっとう》も自然忘れているのだったが、その当座は自分の意地張りからわざと破《こわ》してしまったあの恋愛にいやな気持が残ってならなかった。次第にそれが郷愁のなかに熔《と》け込み、周囲との触れ合いで時々起こるしこり[#「しこり」に傍点]のような硬《かた》い気持が、何から来るのか自分にも解《わか》らなかった。
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おばアこなア、芸者子にもなりゃしゃんせ
人の座敷に巣を造らん鴎《かもめ》か 飛び止まらん鴎か コバイテコバイテ
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 土地の芸者はよくこんなおばア子節を唄《うた》い囃《はや》すのだったが、銀子にはなかなかその郷土調が出ず、旅芸者におちた悲哀を深くするように思えて、好きではなかった。
 銀子はしかし栗栖を避けるわけに行かず、お座附がすんで、酒がまわ
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