話で持ちきりというふうであった。
 銀子にも男性的なこの青年の印象は悪くなかった。文化人気分の多い栗栖とは違って、言葉数も少なく、お世辞もなかったが、どこかのんびりした地方の素封《ものもち》の坊っちゃんらしい気分が、気に入っていた。
 選挙騒ぎもやや鎮《しず》まった時分、倉持は二三人取巻きをつれて来たり、一人で飯を食いに来たりもしていたが、よって来ると三味線《しゃみせん》をひかせておばこ節など唄《うた》って騒ぐくらいで、手もかからず、気むずかしいところも見えなかった。
 銀子は来る時から、別にここで、根を卸す考えはなく、来た以上は真面目《まじめ》に働いて借金を切り、早く引き揚げましょうと思っていたので、千葉時代から見ると、気も引き締まっており、お座敷も殊勝に敏捷《びんしょう》にしていたので倉持にもそこいらの芸者から受ける印象とは一風ちがった純朴《じゅんぼく》なものがあった。
「どうして、この土地へ来たのかね。」
「どうしてでもないのよ。私は上州産だから、西の方は肌に合わないでしょう。東北の方ならいいと思ったまでだわ。来るまではI―なんて聞いたこともなかったわ。でも来てみると、暢気《のんき》でいいわ。」
 するとある時倉持の座敷へ呼ばれ、料亭のお神が、主人を呼んで来いというので、寿々龍の銀子はお神を迎えに行き、お神が座敷へ現われたところで、三人のあいだに話が纏《まと》まり、倉持が銀子のペトロンと決まり、芸妓屋《げいしゃや》へ金を支払うと同時に、月々の小遣《こづかい》や時のものの費用を銀子が支給されることになり、彼女も息がつけた。

      四

 文化の低いこの町では、銀子の好きなイタリイやドイツの写真もなく、国活がまだ日活になったかならない時分のことで、ちゃんばらで売り出した目玉の松ちゃんも登場せず、女形の衣笠《きぬがさ》や四郎五郎なぞという俳優の現代物が、雨漏《あまも》りのした壁画のような画面を展開していたにすぎなかった。しかし歌劇とか現代劇とか、浪花節《なにわぶし》芝居とかいった旅芸人は、入れ替わり立ち替わり間断なくやって来て、小屋の空《あ》く時はほとんどなかった。東京から来るのもあり、仙台あたりから来るのもあり、尖端的《せんたんてき》な歌劇の一座ともなれば、前触れに太鼓や喇叭《らっぱ》を吹き立て、冬|籠《ごも》りの町を車で練り歩くのであった。
 銀子も所在
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