。」
厭味《いやみ》のつもりでもなく均平は言っていた。
六
この辺は厳《きび》しいこのごろの統制で、普通の商店街よりも暗く、箱下げの十時過ぎともなると、たまには聞こえる三味線《しゃみせん》や歌もばったりやんで、前に出ている薄暗い春日燈籠《かすがどうろう》や門燈もスウィッチを切られ、町は防空演習の晩さながらの暗さとなり、十一時になるとその間際《まぎわ》の一ト時のあわただしさに引き換え、アスファルトの上にぱったり人足も絶えて、たまに酔っぱらいの紳士があっちへよろよろこっちへよろよろ歩いて行くくらいのもので、艶《なまめ》かしい花柳|情緒《じょうしょ》などは薬にしたくもない。
広い道路の前は、二千坪ばかりの空地《あきち》で、見番がそれを買い取るまでは、この花柳界が許可されるずっと前からの、かなり大規模の印刷工場があり、教科書が刷られていた。がったんがったんと単調で鈍重な機械の音が、朝から晩まで続き、夜の稼業《かぎょう》に疲れて少時間の眠りを取ろうとする女たちを困らせていたのはもちろん、起きているものの神経をも苛立《いらだ》たせ、頭脳《あたま》を痺《しび》らせてしまうのであった。しかし工場の在《あ》る処《ところ》へ、ほとんど埋立地に等しい少しばかりの土地を、数年かかってそこを地盤としている有名な代議士の尽力で許可してもらい、かさかさした間に合わせの普請《ふしん》で、とにかく三業地の草分が出来たのであった。まだ形態が整わず、組織も出来ずに、日露戦争で飛躍した経済界の発展や、都市の膨脹につれて、浮き揚がって来たものだが、自身で箱をもって出先をまわったような元老もまだ残存しているくらいで、下宿住いの均平がぶらぶら散歩の往《ゆ》き返りなどに、そこを通り抜けたこともあり、田舎《いなか》育ちの青年の心に、御待合というのが何のことか腑《ふ》におちないながらに、何か苦々しい感じであった。その以前はそこは馬場で、菖蒲《しょうぶ》など咲いていたほど水づいていた。この付近に銘酒屋や矢場のあったことは、均平もそのころ薄々思い出せたのだが、彼も読んだことのある一葉という小説家が晩年をそこに過ごし、銘酒屋を題材にして『濁り江』という抒情的《じょじょうてき》な傑作を書いたのも、それから十年も前の日清《にっしん》戦争の少し後のことであった。そんな銘酒屋のなかには、この創始時代の三業に加
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