行くのよ。私は昨日行って来たばかしよ。」
 彼は剽軽《ひょうきん》な目を丸くした。
「あれーお前の話に行くのよ。おれ一人でも何だから一緒に行こう。」
 銀子は渋くった。この裏通りに一軒手頃な貸屋があり、今は鉄道の運輸の方の人が入っているが、少し手入れをすれば店にもなる。それが立ち退《の》き次第銀子の親たちを入れ、今一|棟《むね》、横の路次から入れる奥にも、静かな庭つきの二階家が一軒あり、それも明けさせて銀子が入り、月々の仕送りもするから、それに決めようと、親爺は昨夜も言っていたのだった。

      十五

 裏の家があき、トラックで荷物が運ばれたのは五月の初めで、銀子が潰《つぶ》しの島田に姐《ねえ》さん冠《かぶ》りをして、自分の入る家の掃除をしていると、一緒に乗って来た父が、脚にゲートルなぞ捲《ま》きつけてやって来た。――あの時本所の家では銀子が二階で赤ん坊をあやしているうちに、下で親父《おやじ》が両親を丸めこみ、出来たことなら仕方がないから本人さえ承知ならと父は折れ、母も少しは有難がるのだった。千葉から少し山手へ入ったところに逆上《のぼせ》に利く不動滝があり、そこへ詰めて通ったら、きっと頭が軽くなるだろうと親爺はそんなことも言っていた。
 軟禁の形で休業していた銀子も、その前後からまた蓋《ふた》を開け、気晴らしに好きな座敷へだけ出ることにしていたが、田舎《いなか》から帰って来た栗栖にもたまに逢《あ》うこともできた。
「帰って来た途端に、妙なことを聞いたんだが……。」
 一昨日帰ったばかりだという栗栖に、梅の家の奥の小座敷で逢った時、彼はビールを呑《の》みながら言い出した。病院の帰りで時間はまだ早かった。
 銀子はもう帰る時分だと、いつも思いながら、病院へ電話をかけてみても、まだ帰っていないと後味がわるいし、家《うち》へ訪ねて行っても同様に寂しいので、帰って来ればどこかへ来るだろうと、心待ちに待ち、電話の鈴が鳴るたびに胸が跳《おど》り、お座敷がかかるたびに、お客が誰だか箱丁《はこや》に聞くのだったが、親爺が見番の役員なので、二人を堰《せ》き止めるために、どんな機関《からくり》をしていないとも限らず、気が揉《も》めているのだった。しかし逢ってみると、一昨日帰ったばかりだというので、ほっとしたが、「随分遅かったわ」とも口へ出せずにいるところヘ、栗栖にそう言って目をじ
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