い》も幾つかあった。
 銀子の出たのは、藤本《ふじもと》という、土地では看板の古い家で、通りから少し入り込んだ路次の一軒建てであったが、下の広々した玄関の上がり口の奥に、十畳の部屋があり、簿記台や長火鉢《ながひばち》、電話も廊下につけてあり、玄関|脇《わき》の六畳と次ぎの八畳とで、方形を成した二階屋であったが、庭づたいに行ける離れの一|棟《むね》も二階建てであった。周囲は垣根《かきね》で仕切られ、庭もゆっくり取ってあった。のんびりした家の気分が目見えに行った途端、すっかり銀子の気に入ってしまったのだったが、主人の方でもいくらか、他の抱え並みには見なかった。
 主人は夫婦とも北海道産まれで、病気で奥の八畳に寝ている主婦の方が、五つ六つも年嵩《としかさ》の、四十六七にもなったらしく、髪も六分通りは白く、顔もうじゃじゃけていたけれど、笑い顔に優しみがにじみ、言葉は東京弁そっくりで、この稼業《かぎょう》の人にしては、お品がよかった。前身は解《わか》らなかったが、柔道家の娘だという噂《うわさ》を、抱えの姐《ねえ》さんがしているのは真実《ほんとう》らしく、丈夫の時には、呑助《のみすけ》の親爺《おやじ》が大々した体を小柄の女房に取って組み敷かれたという笑い話もあった。病気は腎臓《じんぞう》に神経痛で、気象のはっきりした銀子が気に入り、肩や腰を擦《さす》らせたりして、小遣《こづか》いをくれたり、菓子を食べさせたりした。
 彼女の話によると、養女が二人あり、みんな大きくなって、年上の方は東京の方で、この商売に取りついており、抱えも五人あって、調子が悪くないというのだったが、下の方もこれもこの土地での評判の美人で、落籍《ひか》されて、東京で勤め人の奥さんで納まっており、子供も三人あるのだった。
「私もこんな病気だもんだからね。あの人たちもいつ死ぬかと思って、少しばかりのものを目当てに時々様子を見て来るのさ。苦労して大きくしてやっても、つまらないものさ。」
 親爺はいつも酒くさい口をしていた。近所の酒場やおでんやでも呑むが、家でも朝から呑んだ。銀子はここでは牡丹《ぼたん》というので出たが、彼はいつもぼた公ぼた公と呼び、お座敷のない時はお酌《しゃく》をさせられた。目のくりくりした丸顔で、玉も撞《つ》くし映画も見るが、浪曲は何よりも好きで、機嫌《きげん》のいい時は楽燕《らくえん》張りの節廻し
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