も、あらかたその手切れに引き取《だ》されてしまった。彼女は一度は目が覚《さ》め、別れようと決心したが、その時はすでに遅く、銀子が腹へ出来ていた。
 銀子がこの世の光に目を開いてから五月目に、彼はまた店を仕舞い、妻子をつれて上京し、柳橋に知合いの株屋があったので、そこの二階で行李《こうり》を釈《と》き、九段の輸出商会へと通いはじめた。やがて彼も遺産の田地もいくらか残っていたので、それを金にして、柳原で店を拡《ひろ》げることになったのだったが、もう十四にもなった銀子が、蔵前のある靴工場へ通い、靴製造の職を仕込まれた時分には、子供も殖《ふ》え、彼も怪我《けが》をして、小僧と職工を四五人つかっていた、柳原の店も寂れがちであった。
 銀子が芸者屋をいやがり、手に職を覚えるつもりで、靴の徒弟に住みこんだのは、ちょうど蔵前の大きな靴屋で、そのころハイカラな商売とされた斯界《しかい》の先達《せんだつ》であり、その商売に転向した多勢の佐倉藩士の一人で、夫人も横浜の女学校出のクリスチャンであり、一つ女の職人を仕立てるのも面白かろうと引き受けてくれた。

      六

 銀子はクリスチャンであったその家庭で日常を躾《しつ》けられ、多勢の兄弟子に交じって、皮を裁つことや縫うことを覚え、間もなく手間賃をもらい、家の暮しを助けることができたが、やがて彼女の細腕では持ちきれない時が来た。
 やがて皮削《かわそ》ぎ庖丁《ぼうちょう》や縫針で、胼胝《たこ》の出来た手で、鼓や太鼓の撥《ばち》をもち、踊りも、梅にも春や藤娘、お座敷を間に合わせるくらいに仕込まれた。銀子は撫《な》で肩の肩が少し厚ぼったく、上背《うわぜい》もなかったが顔は彼女の型なりに完成美に近く、目も美しく、鼻も覗《のぞ》き気味で尋常であった。鼻の下の詰まったところにも意気味があった。
 銀子はもとちょっと居た人形町の家《うち》へも行きづらく、その土地で人に顔を見られるのもいやで、今度はあらためて河岸《かし》をかえ、体が楽だという触れ込みのある千葉の蓮池《はすいけ》から出ることにしたのであった。
 蓮池の埋立てだという蓮池の花街は、駅から二丁ばかり行った通りにあった。その辺には洋食屋やカフエ、映画館などもあり、殷賑《いんしん》地帯で、芸者の数も今銀子のいる東京のこの土地と乙甲《おつかつ》で、旅館料理屋兼業の大きい出先に、料亭《りょうて
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