山大尉は留守と来た。お前は前途有望だから、残って部下の訓練に精を出してくれなくちゃ困ると、まあ然ういう命令なんだ。
 秋山大尉は残念でならねえ。○○師団のところへ掛合行きも行った。五度も行って縋った。○○師団長も終に怒った。軍隊の命令は、総て、天皇陛下のお言渡しと心得ろと然う言って叱って返した。秋山さんも、何うも為方がねえ。
 尤も奥さんの綾子さんの方でも、随分気はつけていた。遺書《かきおき》のようなものを、肌を離さずに持っていたのを、どうかした拍子に、ちらと見てからと云うもの、少しも気を許さない。どこへ出るにも馬丁をつけてやることにしていたんだ。夜分なども、碌々眠らないくらいにして、秋山大尉の様子に目を配っておった。
「これがあるから監視するんだな。可《よ》しこんなものを焼捨てて了おう。」というんで、秋山大尉がその手紙を奥さんの目の前で皆な火に燻べて了った。それで奥さんの方も気が弛んだ。
 秋山大尉は、そうと油断さしておいて、或日××河へ飛込んだがだ。河畔《かわばた》の柳の樹に馬を繋いで、鉛筆で遺書《かきおき》を書いてそいつを鞍に挟んでおいて、自分は鉄橋を渉《わた》って真中からどぶん
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