つた苦痛は、むしろそれ以上であつた。何事にも不検束《ふしだら》な彼にも、監視と鞭撻《べんたつ》の余儀ないことが痛感された。彼は時々芳太郎の気分を、数学や英語の方へ牽《ひ》きつけようと力めた。その結果、彼は時々思ひのほか苛辣《からつ》な言葉を口へ出さなければならなかつた。
 磯村はそれらの雑念から脱《のが》れようとして、強《し》ひて机に坐り返して、原稿紙のうへの埃《ほこり》を軽く吹きながら、漸《やつ》とのことでペンを動かしはじめた。
 すると暫くしてから、格子戸の開く音が彼の耳へ入つた。磯村は原稿の催促か、来客かと思つて、ちよつと安易を失つた気持で、ペンを止めてゐた。そこへ縁側の方へ芳太郎の影がさした。彼は手に電報をもつてゐたが、入つてくるのを躊躇《ちうちよ》してゐた。
「どこから。」妻の声がした。
「これあ秀ちやんだ。」芳太郎の声がした。
 秀ちやんの親である、磯村の姉夫婦が、四月になつたら上京する筈であつた。やつぱり束京にゐる秀ちやんの弟が、一週間ばかり前に、そんな話をして行つた。磯村はてつきり其だと思つたが、妻の感じたところも、同じであるらしく思へた。
「時間がわかつたんでせう。」
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