花が咲く
徳田秋声

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)白木蓮《しろもくれん》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)今|憶《おも》ふと

[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ぶら/\
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 磯村は朝おきると、荒れた庭をぶら/\歩いて、すぐ机の前へ来て坐つた。
 庭には白木蓮《しろもくれん》が一杯に咲いてゐた。空からの白さで明るく透《す》けてゐるやうに思へた。花の咲く時分になつてから、陽気が又後戻りして来て、咲きさうにしてゐた花を暫し躊躇《ちうちよ》させてゐたが、一両日の生温《なまぬる》い暖かさで、それが一時に咲きそろつた。そしてその下の方に茂つてゐる大株の山吹が、二分どほり透明な黄色い莟《つぼみ》を綻《ほころ》ばせて、何となし晩春らしい気分をさへ醸《かも》してゐた。何かしら例年の陽気に見られない、寒さと暑さの混り合つたやうな重苦しい感じがそこに淀《よど》んでゐるやうな日であつた。それは全くいつもの春には見られないやうな、妙に拍子ぬけのした気分であつた。
 彼は何だか勝手がちがつたやうな気がしてゐたが、それは彼の神経の弱々しさも一つの原因であつたが、余り自然に興味をもちすぎる彼の習慣から来てゐるものだとも思はれた。其のうへ彼は又この二三日、ひどく煩《わづら》はしいことが彼の頭に蔽被《おつかぶ》さつてゐることを不快に思つた。
 それは磯村のやうに、家庭に多勢の子供をもつてゐると同時に、社会的にも少しは地位をもつてゐるものに取つては、可也《かなり》皮肉な出来事であつたからで、気の小さい、極《きま》り悪《わる》がり屋の彼は、何《ど》うかして甘《うま》くそれを切りぬけようと、頭脳《あたま》を悩ましてゐた。
「あの女がまた来ましたよ。」
 磯村が何か深い心配事があるやうな調子で、さう言つて、妻に脅《おびや》かされたのは、三日ばかり前の夜のことであつた。
 その夜彼は会があつて、帰りが思ひの外遅くなつた。おしやべりをしたり、酒を飲んだりしたので、彼はひどく疲れてゐたが、妻にさう云はれると、又かと思つて少しは胸がどきりとなつた。
 勿論その女のことは人に頼んで間《なか》へ入つてもらつて、去年の冬とにかく一段落ついた形になつてゐたが、しかし相手が執念《しつこ》く出れば、彼はいつまでたつても安心する訳には行かないのであつた。
「また来たつて。」磯村は軽く問ひ返した。彼女の神経が尖《とが》つてゐるやうに思へて、それに触るのが辛《つら》かつた。
 今となつては、それは単に彼一人の苦労ではないことは判つてゐた。寧《むし》ろ彼女の方が、余計気にしてゐるくらゐであつた。磯村に取つては、思ひがけない災難のやうなものであつた。十年ぶりで、その女から手紙を受取つたとき、彼はそれ以来その女が何うして暮してゐたかを知りたいだけの興味で、多分いく分か生活が明るみへ出てゐるだらうと想像したところから、どこかでちよつと飯でも一緒に食べて話を聞かうと思つたに過ぎなかつたが、それが不運な彼のために用意された陥穽《かんせい》であつた。彼女を一目見たときから、彼はまざ/\幻滅を感じた。嫌悪《けんお》の情がむら/\起つたが、彼女の話はやつぱり聞きたかつた。そして彼は三度まで彼女を訪問した。彼女の話すところでは、最近まで或る工場持の保護を受けてゐたけれど、財界の恐慌でその関係は絶たなければならなかつた。で、すつかり行詰つてゐたところで、磯村に呼出しをかけることを思ひついた。
「ちよつと貴方《あなた》のお名前を見たものですから、一度お目にかゝりたいと思つて、手紙を差上げましたの。でも、多分来ては下さるまいと思つてゐましたのに。」彼女は若い時分とはまるで違つた、べちやつくやうな調子で言ふのであつた。
 飲食事《のみくひごと》をしながら、磯村は出来るだけ、彼女から話を引出さうと焦慮《あせ》つた結果、少しづつ小出しにそれを引出させることはできたけれど、それは真《ほん》の現在の身のうへくらゐのことであつた。
「私はどうしてかう亭主運が悪いんでせう。この子の父親とも暫く一緒に暮したんですけれど……今|憶《おも》ふと、それが私の一番幸福な時でした。」
 彼女はその男の写真なぞ出して見せた。それは大礼服を着飾つた軍人であつた。そしてその子供だと云ふ、五つになる愛らしい子が、餉台《ちやぶだい》の傍にすわつて鰻《うなぎ》を突ついてゐた。
 強《あなが》ち彼女も不真面目ではなささうに見えた。ビールに酔つてくると、彼女の生活から来た習慣
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