で磯村の膝へもたれかゝるやうにしたりしたけれど、もう三十年《さんじふ》を越した彼女としては、前途の不安を感じないではゐられなかつた。
「小遣をおいて行かう。」磯村は言つた。
「いゝですよ。そんな積りぢやないんですわ。私まだお金はありますから。」彼女は言つた。
 勿論さうでもないことが、その後磯村にわかつて来たとほり、彼女は田舎に縁談があるので、そこへ行くについて、少しばかり金のいることを、三度目に逢つたとき、その相談を受けてそれを賛成した磯村に打明けた。
 田舎へ行つたときには、彼女はもう妊娠してゐた。磯村は彼女の大胆さ、といふよりも、恥知らずに呆《あき》れたけれど、何うしようと云ふ気も起らなかつた。そして磯村の酬《むく》いが皮肉に彼に絡《まつは》つて来たのであつた。
 お産の前後、磯村は二三度、自身彼女に金を届けたり、為替《かはせ》を組んだりした。それは磯村に取つては可也《かなり》骨の折れる仕事であつた。そして子供の顔を見た彼女の慾望が、段々大きくなつて行つた。磯村の要求がいつも裏切られた。勿論それは彼女だけの智慧《ちゑ》ではなかつた。

 磯村は彼女がまたのこ/\遣つて来たと聞いて、うんざりしてしまつた。やつぱり本当に解決がつかなかつたのだと思つた。
「子供をつれて来ましたよ。」と、妻はわざと突きつけるやうな調子で言つた。で、何《ど》の子供かと思つて、磯村が問ひ返すと、それは大きい方の子だと言ふので、いくらか安心した。勿論小さい方の子にしたところで、それが自分の子であるか何うかは、その時の彼女の身のまはりを、一応取調べる必要もあるのであつたが、何だか似てゐるやうにも思へるので、それを自分に見るのは無論不愉快だつたが、連れてまで来られるのは、慄然《ぞつ》とするほど厭であつた。勿論それは多分地震のために、人間の感情が、総《すべ》て放散的に、密度を稀薄にされてゐるせゐもあつたが、一つは一年と云ふ時日が、彼の悩みを緩和してゐた。そんな事のために頭脳《あたま》を苦しめることの馬鹿々々しいことは、彼にもはつきり判つてゐた。
「随分づうづしい女ですよ。自家《うち》でもべちやくちやと、厭がらせを言つて行きましたが、吾妻《あづま》さんのところでも、随分色々なことを言つたさうですよ。まるで此の家が自分の家でもあるやうに、……私が好い着物を着てゐたとか、何かが殖えてゐるとか、私松をつけて、吾妻さんとこへ遣つた処ですから。その結果を聞きに、吾妻さんとこへ行つて、今帰つて来たところですよ。」
「金をやつてないのか。」
「え、あの時は怒つて貰はないと言つたとかで、その儘《まゝ》になつてゐるやうですよ。今度はもつと大きく吹きかけてゐるらしいんです。」彼女は泣き出しさうな顔で口惜しさうに言つた。
「あんなに又金をほしがる奴はないからね。」
「なか/\片づきませんよ。確かに誰かついてゐるんです。」
「どんな身装《なり》で来た。」
「え、それでも子供には縮緬《ちりめん》なんか着せてね。」
「それだと厄介かも知れないね。困つてゐると遣りいゝが。」
 その翌日から磯村は妻の険悪を感じた。磯村以上にもそれが胸の痞《つかへ》になつてゐることは判つてゐながら、彼女の態度を見ると、余り感じが好くなかつた。彼は出来るだけ口を利かないことにしてゐた。
 で、今朝も彼は用事を女中たちに足してもらふことにしてゐた。花が咲くのにまた不愉快な日がつゞくのかと思ふと、頭脳が憂欝になつた。
「どこかへ行つてしまはう。」彼はさうも思つた。
 勿論仕事の都合さへできれば今年は吉野の花を見に行かうなぞと思つてゐた。それとも健康を恢復《くわいふく》するためには、どこか静かな山の温泉が好いかとも思つてゐた。彼は毎日毎日こま/\した急ぎの仕事に追はれづめであつた。一日としてペンを手にしない日はなかつた。旅行をするためには、仕事の余裕《ゆとり》をつけることが必要であつたけれど、それも当分望めさうもなかつた。彼は体を虐《しひた》げてゐることを考へるだけでも、恐ろしいやうな気がしてゐた。
 磯村は、展《ひろ》げられた原稿紙に向ひさうにしては、また煙草を手に取りあげてゐた。
「いや、それよりも芳太郎の試験は何うなつたらう。」磯村はいつか又その方へ気を取られはじめてゐた。
 大概大丈夫らしかつた。出来ばえを調べて見たところでは、これならば先づ安心だと思はれた。しかし結果はまだ判らなかつた。
「若し今度駄目だとしたら。」
 磯村は自分の失望よりも、子供の悩みを考へないではゐられなかつた。芳太郎は咽喉《のど》の病気のために、二年間試験を受けることができなかつた。一度は地方で、一度は東京で……。地方では、彼は感冒にかゝつて、当日の朝から発熱したが、押して俥《くるま》で出て行つた。その午後から熱が四十度に昇つた。そ
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