して試験はそれきりであつた。去年は東京でK大学だけ受けることになつてゐたが、前日の夜おそくから、扁桃腺《へんたうせん》の腫《は》れ出したのに気づいて、手当をしたけれど、矢張駄目だつた。彼は母と友人に送られて、頭に氷嚢《ひようなう》をつけて入場したのであつたが、第一の課目を終へて出て来たときには、顔は真蒼《まつさを》になつてゐた。そして近所の医者の手当を受けて自動車で帰つて来た。扁桃腺は化膿《くわのう》しはじめてゐた。日に/\それが咽喉《のど》一杯に腫《は》れ塞《ふさ》がつて行つた。声を出すのが困難であつた。呑んだ牛乳が鼻腔《びこう》からだらだら流れ出した。入院して手術を受けたところで、漸《やつ》とその苦しみから脱れることが出来た。
 学校へ通ふことなしに、二年の月日をぶら/\してゐることは、文学や音楽に相当な目の開きかゝつた芳太郎に取つては、危険が伴はずにはゐられなかつた。怯気《おぢけ》のついた彼に取つては試験勉強ほど気分を憂欝にするものはなかつた。現代の試験その物、教育その物に幾分、疑ひを抱《いだ》かずにはゐられなかつた。そして其の間それを傍観してゐる磯村の堪《た》へ忍ばねばならなかつた苦痛は、むしろそれ以上であつた。何事にも不検束《ふしだら》な彼にも、監視と鞭撻《べんたつ》の余儀ないことが痛感された。彼は時々芳太郎の気分を、数学や英語の方へ牽《ひ》きつけようと力めた。その結果、彼は時々思ひのほか苛辣《からつ》な言葉を口へ出さなければならなかつた。
 磯村はそれらの雑念から脱《のが》れようとして、強《し》ひて机に坐り返して、原稿紙のうへの埃《ほこり》を軽く吹きながら、漸《やつ》とのことでペンを動かしはじめた。
 すると暫くしてから、格子戸の開く音が彼の耳へ入つた。磯村は原稿の催促か、来客かと思つて、ちよつと安易を失つた気持で、ペンを止めてゐた。そこへ縁側の方へ芳太郎の影がさした。彼は手に電報をもつてゐたが、入つてくるのを躊躇《ちうちよ》してゐた。
「どこから。」妻の声がした。
「これあ秀ちやんだ。」芳太郎の声がした。
 秀ちやんの親である、磯村の姉夫婦が、四月になつたら上京する筈であつた。やつぱり束京にゐる秀ちやんの弟が、一週間ばかり前に、そんな話をして行つた。磯村はてつきり其だと思つたが、妻の感じたところも、同じであるらしく思へた。
「時間がわかつたんでせう。」
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