妻は言つてゐた。
「いや。」芳太郎は答へてゐたが、少しまごついたやうに、それを磯村に見せに来た。
「オイワイしますつて何だい。お前に当てたんぢやないか。局はミタだぜ。」
芳太郎は泡をくつたやうに、ちよつとどぎまぎしながら茶《ちや》の室《ま》へ行つてしまつた。
「何だ、もう判つてゐるぢやないか。それでも知らしてくれたのは感心だ。」
秀ちやんは閥《しきゐ》が高くなつてゐて、もう二年も姿を見せなかつたのであつた。
「多分本当だらうと思ふが、行つて見て来たら何うだ。」
「まさか※[#「言+墟のつくり」、第4水準2−88−74]ぢやないでせう。この頃どこかあちらの方へ勤めてゐるさうですから、確かに見たんでせう。」妻もさう言つて襖《ふすま》をあけて、入つて来た。
「さうだらうとは思ふがね。無論さうだらう。」
「まあ可かつた。」
「これで己もいくらか吻《ほつ》とした。」磯村も言つた。
「今度駄目だつたら、もう御父さんには心配かけない、自分で何うかすると言つてゐましたけれど。」
「おれも学校なんか止めさせて、皆で何か商売でもして、一緒に働かうかと思つた。」
暫くすると、磯村はまたペンを動かしはじめた。そしてそれを出させてしまふと、漸《やつ》と解放されたやうな気持で、庭へ飛び出した。そして軽い気持で、昨日から運びこんだまゝになつてゐる植木を植ゑるために、鍬《くは》とシャベルを裏の物置から引張りだして来た。木でも植ゑたら廃《すさ》んだ庭が、少しは生気づくだらうと思はれた。
それが済んでから、軽い疲れを楽しみながら、縁側でパンを食べながら、牛乳を呑んでゐると、そこへ吾妻夫婦が訪ねて来た。
「また遣つて来たさうですが……。」磯村は不安さうに訊《き》いた。
「いや、実は今日その、私んとこへ来ることになつてゐましてね。」吾妻はさう言つて、袂から半紙に何か書きつけたものを出して、突きつけながら、
「それでまあかう云ふことにしておきました。」
磯村はそれを受取つて目を通した。金の受取と、そして今後何事があつても何等の迷惑を持込まないことと、子供が磯村に関係ないこととが、定法《ぢやうはふ》どほりに女の手によつて認《したゝ》められてあつた。
「そのくらゐにしておけば、たとひ何んな事があつても大丈夫です。」
「いや、どうも。」磯村はちよつとお辞儀をした。
「よく聞くと、あの大きい子供のお父さん
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