けて、吾妻さんとこへ遣つた処ですから。その結果を聞きに、吾妻さんとこへ行つて、今帰つて来たところですよ。」
「金をやつてないのか。」
「え、あの時は怒つて貰はないと言つたとかで、その儘《まゝ》になつてゐるやうですよ。今度はもつと大きく吹きかけてゐるらしいんです。」彼女は泣き出しさうな顔で口惜しさうに言つた。
「あんなに又金をほしがる奴はないからね。」
「なか/\片づきませんよ。確かに誰かついてゐるんです。」
「どんな身装《なり》で来た。」
「え、それでも子供には縮緬《ちりめん》なんか着せてね。」
「それだと厄介かも知れないね。困つてゐると遣りいゝが。」
 その翌日から磯村は妻の険悪を感じた。磯村以上にもそれが胸の痞《つかへ》になつてゐることは判つてゐながら、彼女の態度を見ると、余り感じが好くなかつた。彼は出来るだけ口を利かないことにしてゐた。
 で、今朝も彼は用事を女中たちに足してもらふことにしてゐた。花が咲くのにまた不愉快な日がつゞくのかと思ふと、頭脳が憂欝になつた。
「どこかへ行つてしまはう。」彼はさうも思つた。
 勿論仕事の都合さへできれば今年は吉野の花を見に行かうなぞと思つてゐた。それとも健康を恢復《くわいふく》するためには、どこか静かな山の温泉が好いかとも思つてゐた。彼は毎日毎日こま/\した急ぎの仕事に追はれづめであつた。一日としてペンを手にしない日はなかつた。旅行をするためには、仕事の余裕《ゆとり》をつけることが必要であつたけれど、それも当分望めさうもなかつた。彼は体を虐《しひた》げてゐることを考へるだけでも、恐ろしいやうな気がしてゐた。
 磯村は、展《ひろ》げられた原稿紙に向ひさうにしては、また煙草を手に取りあげてゐた。
「いや、それよりも芳太郎の試験は何うなつたらう。」磯村はいつか又その方へ気を取られはじめてゐた。
 大概大丈夫らしかつた。出来ばえを調べて見たところでは、これならば先づ安心だと思はれた。しかし結果はまだ判らなかつた。
「若し今度駄目だとしたら。」
 磯村は自分の失望よりも、子供の悩みを考へないではゐられなかつた。芳太郎は咽喉《のど》の病気のために、二年間試験を受けることができなかつた。一度は地方で、一度は東京で……。地方では、彼は感冒にかゝつて、当日の朝から発熱したが、押して俥《くるま》で出て行つた。その午後から熱が四十度に昇つた。そ
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