葉子が、半年の余も閉じ籠《こ》もっていた海岸の家を出て、東京へ出て来たのは、加世子の葬式がすんで間もないほどのことであった。
加世子はその一月の二日に脳溢血《のういっけつ》で斃《たお》れたのだったが、その前の年の秋に、一度、健康そうに肥《ふと》った葉子が久しぶりにひょっこり姿を現わした。彼女は一色とそうした恋愛関係をつづけている間に、彼を振り切って、とかく多くの若い女性の憧《あこが》れの的であった、画家の山路草葉《やまじそうよう》のもとに走った。そして一緒に美しい海のほとりにある葉子の故郷の家を訪れてから、東京の郊外にある草葉の新らしい住宅で、たちまち結婚生活に入ったのだった。この結婚は、好感にしろ悪感にしろ、とにかく今まで彼女の容姿に魅惑を感じていた人たちにも、微笑《ほほえ》ましく頷《うなず》けることだったに違いなかった。
葉子は江戸ッ児《こ》肌《はだ》の一色をも好いていたのだったが、芸術と名声に特殊の魅力を感じていた文学少女型の彼女のことなので、到頭出版されることになった処女作の装釘《そうてい》を頼んだのが機縁で、その作品に共鳴した山路の手紙を受け取ると、たちどころに吸いつけられてしまった。これこそ自分がかねがね捜していた相手だという気がした。そしてそうなると、我慢性のない娘が好きな人形を見つけたように、それを手にしないと承知できなかった。自分のような女性だったら、十分彼を怡《たの》しませるに違いないという、自身の美貌《びぼう》への幻影が常に彼女の浮気心を煽《あお》りたてた。
ある夜も葉子は、山路と一緒に大川|畔《ばた》のある意気造りの家の二階の静かな小間で、夜更《よふ》けの櫓《ろ》の音を聴《き》きながら、芸術や恋愛の話に耽《ふけ》っていた。故郷の彼女の家の後ろにも、海へ注ぐ川の流れがあって、水が何となく懐かしかった。葉子は幼少のころ、澄んだその流れの底に、あまり遠く押し流されないように紐《ひも》で体を岸の杭《くい》に結わえつけた祖母の死体を見た時の話をしたりした。年を取っても身だしなみを忘れなかった祖母が、生きるのに物憂《ものう》くなっていつも死に憧れていた気持をも、彼女一流の神秘めいた詞《ことば》で話していた。庸三の子供が葉子を形容したように彼女は鳥海山《ちょうかいさん》の谿間《たにま》に生えた一もとの白百合《しらゆり》が、どうかしたはずみに、材木か何かのなかに紛れこんで、都会へ持って来られたように、自然の生息《いぶき》そのままの姿態でそれがひとしお都会では幽婉《ゆうえん》に見えるのだったが、それだけまた葉子は都会離れしているのだった。
山路と二人でそうしている時に、表の方でにわかに自動車の爆音がひびいたと思うと、ややあって誰か上がって来る気勢《けはい》がして妹の声が廊下から彼女を呼んだ。――葉子はそっと部屋を出た。妹は真蒼《まっさお》になっていた。一色が来て、凄《すさ》まじい剣幕で、葉子のことを怒っているというのだった。
葉子は困惑した。
「そうお。じゃあ私が行って話をつける。」
「うっかり行けないわ。姉さんが殺されるかも知れないことよ。」
そんな破滅になっても、葉子は一色と別れきりになろうと思っていなかった。たとい山路の家庭へ入るにしても、一色のようなパトロン格の愛人を、見失ってはいけないのであった。
葉子が妹と一緒に宿へ帰って来るのを見ると、部屋の入口で一色がいきなり飛びついて来た。――しばらく二人は離れなかった。やがて二人は差向いになった。一色は色がかわっていた。女から女へと移って行く山路の過去と現在を非難して、涙を流して熱心に彼女を阻止しようとした。葉子も黙ってはいなかった。優しい言葉で宥《なだ》め慰めると同時に、妻のある一色への不満を訴えた。しゃべりだすと油紙に火がついたように、べらべらと止め度もなく田舎訛《いなかなまり》の能弁が薄い唇《くちびる》を衝《つ》いて迸《ほとば》しるのだった。終《しま》いに彼女は哀願した。
「ねえ、わかってくれるでしょう。私|貴方《あなた》を愛しているのよ。私いつでも貴方のものなのよ。でも田舎の人の口というものは、それは煩《うるさ》いものなのよ。私のことはいいにつけ悪いにつけすぐ問題になるのよ。母や兄をよくするためにも、山路さんと結婚しておく必要があるのよ。ほんとに私を愛してくれているのなら、そのくらいのこと許してよ。」
一色は顔負けしてしまった。
ちょうどそのころ、久しぶりで庸三の書斎へ彼女が現れた。彼女は小ざっぱりした銘仙《めいせん》の袷《あわせ》を着て、髪も無造作な引詰めの洋髪であった。
「先生、私、山路と結婚しようと思いますのよ。いけません?」
葉子はいつにない引き締まった表情で、彼の顔色を窺《うかが》った。
「山路君とね。」
庸三は少し難色を浮かべた。淡い嫉妬《しっと》に似た感情の現われだったことは否めなかった。
「あまり感心しない相手だけれど……。」
「そうでしょうか。でも、もう結婚してしまいましたの。」
「じゃあいいじゃないか。」
「山路が先生にお逢《あ》いしたいと言っておりますのよ。」
「一緒に来たんですか。」
「万藤の喫茶店におりますの。もしよかったら先生もお茶を召し食《あが》りに、お出《い》でになって下さいません?」
庸三は日和下駄《ひよりげた》を突っかけて門を出たが、祝福の意味で二人を劇場近くにある鳥料理へ案内した。しかし二人の結婚が決裂するのに三月とはかからなかった。庸三はその夏|築地《つきじ》小劇場で二人に出逢った。額に前髪のかぶさった彼女の顔も窶《やつ》れていたし、無造作な浴衣《ゆかた》の着流しでもあったので、すぐには気がつかなかった。しかし廊下で彼に微笑《ほほえ》みかけるようにしている彼女の顔が、何か際《きわ》どく目に立たない嬌羞《きょうしゅう》を帯びていて、どこかで見たことのある人のように思えてならなかった。――やがて三人でお茶を呑《の》むことになったのだったが、葉子のこのごろが、生活と愛に痛めつけられているものだということは、想像できなくはなかった。
ある日庸三が、鎌倉《かまくら》の友人を訪問して来ると、その留守に珍らしく葉子がやって来たことを知った。
「何ですか大変困っているようでしたよ。山路さんとのなかが巧く行かないような口振りでしたよ。ぜひ逢ってお話ししたいと言って……。後でもう一度来るといっていましたから、来たらよく聴《き》いておあげなさいよ。」
加世子は言っていたが、しかしそれきりだった。
庸三はその後一二度田舎から感傷的な彼女の手紙も受け取ったが、忘れるともなしにいつか忘れた時分にひょっこり彼女がやって来た。
葉子は潮風に色もやや赭《あか》くなって、大々《だいだい》しく肥《ふと》っていた。彼女は最近二人の男から結婚の申込みを受けていることを告げて、その人たちの生活や人柄について、詳しく説明した後、そうした相手のどっちか一人を択《えら》んで田舎に落ち着いたものか、もう一度上京して創作生活に入ったものかと彼に判断を求めた。
「あんたのような人は、田舎に落ち着いているに限ると思うな。ふらふら出て来てみたところでどうせいいことはないに決まっているんだから。田舎で結婚なさい。」
瞬間葉子は肩を聳《そび》やかせて言い切った。
「いや、私は誰とも結婚なんかしようとは思いません。私はいつも独りでいたいと思っています。」
そういう葉子の言葉には、何か鬱勃《うつぼつ》とした田舎ものの気概と情熱が籠《こ》もっていた。そして話しているうちに何か新たに真実の彼女を発見したようにも思ったが、ちょっと口には出せない慾求も汲《く》めないことはなかった。
彼は後刻近くの彼女の宿を訪ねることを約束して別れたのであったが、晩餐《ばんさん》の支度《したく》をして待っていた葉子は、彼の来ないのに失望して、間もなく田舎へ帰って行った。
一色と彼女のあいだに、その後も手紙の往復のあったことは無論で、月々一色から小遣《こづかい》の仕送りのあったことも考えられないことではなかった。
加世子の死んだ知らせに接してにわかに上京した葉子は、前にいた宿に落ち着いてから、電話で一色を呼び寄せた。そして二人打ち連れて庸三の家を訪れた。その時から彼女の姿が、しきりに彼の寂しい書斎に現われるようになったのだったが、庸三も親しくしている青年たちと一緒に、散歩の帰りがけにある暮方初めて彼女の部屋を訪れてみた。十畳ばかりのその部屋には、彼の侘《わび》しい部屋とは似ても似つかぬ、何か憂鬱《ゆううつ》な媚《なま》めかしさの雰囲気《ふんいき》がそこはかとなく漾《ただよ》っていた。
二
葉子は何か意気な縞柄《しまがら》のお召の中古《ちゅうぶる》の羽織に、鈍い青緑と黝《くろ》い紫との鱗形《うろこがた》の銘仙の不断着で、いつもりゅうッ[#「りゅうッ」に傍点]とした身装《みなり》を崩さない、いなせ[#「いなせ」に傍点]なオールバック頭の、大抵ロイド眼鏡をかけている一色と一緒に、寂しい夜の書斎に独りぽつねんとしている庸三をよく訪れたものだったが、そのころにはいつまでも床の前に飾ってあった亡妻の位牌《いはい》も仏壇に納められて、一時衰弱していた躯《からだ》もいくらかよくなっていた。妻の突然の死で、彼は凭《もた》れていた柱が不意に倒れたような感じだった。加世子は自分が生き残るつもりで庸三の死んだ後のことばかり心配していたのだったが、庸三も健康に自信がもてないので、大体そのつもりでいたが、無計画に初まったこの家庭生活はどこまでも無成算で、不安な心と心とが寄り合ってどうにかその日その日を生きていたものであった。最近少し余裕が出来たので、音楽好きの子供にねだられて、やっとセロを一|梃《ちょう》買ってやった妻に、彼はあまり好い顔をしなかった。ラブレタアが投函《とうかん》されていたことを、何かのおりに感づいて、背広を着て銀座の喫茶店へなぞも入るらしい子供がいつの間にか父に叛逆的《はんぎゃくてき》な態度を示すのに神経を痛めている折なので彼はむき[#「むき」に傍点]になった。しかし加世子は怒りっぽい庸三を、子供に直面させることを怖《おそ》れて、いつも庸三を抑制した。今は父子のあいだの緩衝地帯も撤廃されたわけだった。日蔭もののように暮らして来た庸三の視界がにわかに開けていた。風呂《ふろ》へ入るとか、食膳《しょくぜん》に向かうとかいう場合に、どこにも妻の声も聞こえず、姿も見えないので、彼はふと片手が※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2−78−12、146−上−18]《も》げたような心細さを感ずるのだったが、一方また思いがけなく若い時分の自由を取り戻したような気持にもなれた。彼は再婚を堅く否定していたので、さっそく何か世話しようと気を揉《も》んでいる人の友情に、何の感じも起こらなかったが見知らぬ世間の女性を心ひそかに物色してもいた。女性の前に今まで膝《ひざ》も崩さなかった儀容と隔心とが、自然に撤廃されそうであった。
葉子は下宿へ逢《あ》いに来る一色と対《つい》で二三度庸三の書斎に姿を現わしたが、ある晩到頭一人でやって来て机の前にいる彼に近づいた。
「私先生のところへ来て、家事のお助《す》けしたいと思うんですけどどう?」
葉子は無造作に切り出した。庸三はその言葉が本当には耳へ入らなかった。
「あんたに家庭がやれますか。」
「私家庭が大好きなんですの。」
「それあ刺繍《ししゅう》や編物はお得意だろうが、僕の家庭と来たら…………。」
「あら、そんな! 私台所だってお料理だってできますの。子供さんのお相手だって。」
「そうかしら。」
葉子は少し乗り出した。
「先生の今までの御家庭の型や何かは、そっくりそのまま少しも崩さずに、先生や子供さんのために、一生懸命働いてみたいんですのよ。それで先生の生きておいでになる間、お側にお仕えして、お亡くなりになったら、その時は子供さんたちの御迷惑にならないように、潔《いさぎよ》く身を退《ひ》きます。」
「貴女《あなた》はどうするんで
前へ
次へ
全44ページ中2ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング