るまで出て来なかったことも、ちょっと気がかりであったが、洋館の長い廊下を右に折れて少し行くと、そこから石段をおりて、暗い庭の飛石伝いに、ボオイの案内で縁側から日本間へ上がって、やっと落ち着いたのは、二階の八畳であった。寒さを恐れる彼に、ボオイは電気ヒイタアのスウィッチを捻《ひね》ってくれた。そして風呂《ふろ》で温まってから、大きな紫檀《したん》の卓に向かって、一杯だけ取った葡萄酒《ぶどうしゅ》のコップに唇《くちびる》をつけるころには、葉子の顔も次第に幸福そうに輝いて、鉄道の敷けない前、廻船問屋《かいせんどんや》で栄えていた故郷の家の屋造りや、庸三の故郷を聯想《れんそう》させるような雪のしんしんと降りつもる冬の静かな夜深《よふけ》の浪《なみ》の音や、世界の果てかとおもう北の荒海に、幻のような灰色の鴎《かもめ》が飛んで、暗鬱《あんうつ》な空に日の目を見ない長い冬のあいだの楽しい炬燵《こたつ》の団欒《だんらん》や――ちょっとした部屋の模様や庭のたたずまいにも、何か神秘めいた陰影を塗り立てて、そんなことを話すのであった。
 夜が更《ふ》けて来た。やがて障子がしらしらと白むころに、二人は腐ったよ
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