すぐ》ったいようなその言葉も、大して彼の耳には立たなかった。
「時々来て家を見てくれるくらいは結構です。それ以外のことはいずれゆっくり考えましょう。」
 茶の間で子供たちとしばらく遊んでから、葉子は帰って行った。

      三

 郊外のホテルのある一夜――その物狂わしい場面を思い出す前に、庸三はある日映画好きの彼女に誘われて、ちょうどその日は雨あがりだったので、高下駄《たかげた》を穿《は》いて浅草へ行く時、電車通りまでの間を、背の高い彼女と並んで歩くのも気がひけて「僕は自動車には乗りませんから」と断わって電車に乗ってからも、葉子が釣革《つりかわ》に垂れ下がりながら先生々々と口癖のように言って何かと話しかけるのに辟易《へきえき》したことだの、映画を見ているあいだ、そっと外套《がいとう》の袖《そで》の下をくぐって来る彼女の手に触れたときの狼狽《ろうばい》だの、ある日ふらりと彼女の部屋を訪ねると、真中に延びた寝床のなかに、熱っぽい顔をした彼女がいて、少し離れて坐った庸三が、今にも起き出すかと待っていると、彼女は赤い毛の肌着だけで、起きるにも起きられないことがやっと解《わか》って照れてい
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