床の間に置き忘れてあるじゃありませんか。」
「ある人とは?」
 小夜子は独逸《ドイツ》の貴族の屋敷に、老母もろとも同棲《どうせい》することになってから、かつては幾年かのあいだ、一緒に世帯《しょたい》をもったことのあるその男の名前や身分を、庸三に語るだけの興味すらすでに失っていた。
 話しているうちに五反田へ着いた。そして長々と生垣《いけがき》を結い繞《めぐ》らした、木立の陰のふかい××閣の大門の少し手前のところで、小夜子は車を止めさせ、運転士をやって訊《き》かせてみたが、そういう方はまだ見えていないというのであった。それと同時に、ぱっとヘッドライトの明りが差して、一台の自動車が門から出て来てこっちへカアブして来た。そのルウム・ライトの光の下に、野暮くさい束髪頭の黒羅紗《くろラシャ》のコオトに裹《くる》まって、天鵞絨《ビロード》の肩掛けをした、四十二三のでぶでぶした婦人の赭《あか》ら顔が照らし出されていたが、細面《ほそおも》の、ちょっときりりとした顔立ちの洋服の紳士が、俛《うつむ》きながら煙草《たばこ》にマッチを摺《す》りつけていた。庸三は何か胸糞《むなくそ》の悪いような感じで、この家の
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