ね。もしも先生がふと姿を消すようなことがあるとしても、とても捜し出せやしないでしょうね。」
葉子はいつかそんなことを口にしていたが、それは自分が逃げる時のことを考えてのことなのはもちろんであったが、一度失敗もしているので、この年取った男にかかっては、迂濶なこともできないとかねがね用心しているに違いなかった。しかし庸三は彼女が下宿にも旅館にもいないとなると、旅館で書いている間、来てはいけないと言われていることと照らし合わせて、彼女の態度が癪《しゃく》に障《さわ》っていた。いつから旅館をあけているのか、それも解《わか》らなかった。ずっと部屋に籠もって勉強しているのか、それとも時には創作慾の刺戟《しげき》を求めにシネマ・パレイスや武蔵野館《むさしのかん》へ行くとか、蓄音器を聞きながら、お茶を呑《の》みに喫茶店へ入ったりして感興を唆《そそ》とうとしているのか。それくらいはいいとしても、誰か若い異性を部屋へ連れこんでいるのではないかという気もしたのだった。そういう時は彼も心のやり場を求めて、川ぞいの家へ遊びに行くのが習慣になっていた。小夜子はかつての失敗に懲りて、ふっつり盃《さかずき》を口にし
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