頭その情人の姓名を突き留め、二人が泊まったという部屋まで見届けたという、友人の狂気じみた情痴に呆《あき》れたものだったが、今はそれも笑えなかった。機会次第では彼もどんな役割を演じかねないのであった。
まず取っつきの横町の小さな下宿屋を二三軒きいてみた。ちょうど女中が襷《たすき》がけで拭《ふ》き掃除に働いている時間だったが、ある家では刑事と見られた感じを受けた。支那《シナ》の留学生の巣が、ごみごみしたその辺に軒を並べていた。
いい加減に切り揚げて、やがてその一|区劃《くかく》をぬけて、広い通りの旅館を二軒と、アパアト風の洋館を一軒当たってみたが、無駄であった。そして当てなしにぶらついているうちに、いつか小川町《おがわまち》の広い電車通りへ出て来て、そこから神保町の方嚮《ほうこう》へと歩くのだったが、その辺は不断通っていると、別に何の感じもないのだったが、今そうやって特殊の目的のために気を配って歩いていると、昔その辺を毎晩のように散歩していた気軽な下宿生活の匂いが、その時代の街《まち》の気分と一緒に、嗅《か》げて来るのであった。濠端《ほりばた》の近くにあった下宿の部屋が憂鬱《ゆううつ》になって来ると、近所にいた友人の画家を誘って、喫茶店の最初の現われとも言える、ミルク・ホウルともフルウツ・パラアともつかない一軒の店で、パイン・アップルを食べたり、ココアを飲んだりした。ある夜は寄席《よせ》へ入って、油紙に火がついたように、べらべら喋《しゃべ》る円蔵の八笑人や浮世床を聴《き》いたものだった。そうしているうちに、彼は酷《ひど》い胃のアトニイに罹《かか》った。
「あれから何年になるか。」
彼は振り返った。
神保町の賑《にぎ》やかな通りで、ふとある大きな書店の裏通りへ入ってみると、その横町の変貌《へんぼう》は驚くべきもので、全体が安価な喫茶と酒場に塗り潰《つぶ》されていた。透かして視《み》ると、その垠《はずれ》に春光館と白く染めぬいた赤い旗が、目についたので、庸三はどうせ無駄だとは思ったが行って見た。するとその貧弱なバラック建の下宿兼旅館の石段を上がって、玄関へ入って行った彼の目の前に、ちょうど階段の裏になっている廊下の取っ着きの、開きの襖《ふすま》があいていて、その部屋の入口に、セルの単衣《ひとえ》を着て、頭の頂点で彼女なりに髪を束ねた葉子が、ちょこなんと坐っていた。ほっとした気持で「おい」と声かけると、彼女は振り返ったが、いくらか狼狽《ろうばい》気味で顔を紅《あか》くした。そして籐《とう》のステッキを上がり框《がまち》に立てかけて、ずかずか上がろうとする庸三に、そっと首をふって見せたが、立ち上がったかと思うと、階段の上を指さして、二階へ上がるようにと目で知らした。庸三はどんどん上がって行った。彼女もついて来た。
「ここ私たちの部屋ですの。」
そう言って葉子は取っ着きの明るい部屋へ案内した。感じのわるくない六畳で、白いカアテンのかかった硝子窓《ガラスまど》の棚《たな》のうえに、少女雑誌や翫具《おもちゃ》がこてこて置かれ、編みかけの緑色のスウェタアが紅い座蒲団《ざぶとん》のうえにあった。朝鮮ものらしい蓙《ござ》の敷物も敷いてあった。
葉子は彼を坐らせておいて、一旦下へおりて行ったが、少し経《た》ってから瑠美子を連れて上がって来た。
「おじさんにお辞儀なさい。」
瑠美子が手をついてお辞儀するので、庸三も頭を撫《な》で膝《ひざ》へ抱いてみた。
「どうしたんだい。誰かいるの、下の部屋に。」
「職人ですの。――あの部屋が落着きがいいもんですから、今壁紙を貼《は》ってもらっていましたのよ。」
「それでどうしたんだね。」
「近いうち一度お伺いしようと思っていましたの。私瑠美子を仏英和の幼稚園へ入れようと思うんですけれど、あすこからではこの人には少し無理でしょうと思って……。咲子ちゃんどうしています。」
「泣いて困った。それに病気して……。君は酷《ひど》いじゃないか。僕が悪いにしても、出たきり何の沙汰《さた》もしないなんて。」
庸三はハンケチで目を拭《ふ》いた。葉子は少し横向きに坐って、編みものの手を動かしていた。
「でも随分大変だとは思うの。」
「やっと初まったばかりじゃないか。今に子供たちも仲よしになるよ。どうせそれは喧嘩《けんか》もするよ。」
「瑠美子も咲子さんの噂《うわさ》していますの。」
「家《うち》の子供だって、あんなにみんなで瑠美子を可愛《かわい》がっていたじゃないか。」
「貧しいながらも、私ここを自分の落着き場所として、勉強したいと思ってましたの。そして時々作品をもって、先生のところへ伺うことにするつもりでいたんですけれど、いけません。」
「駄目、駄目。君の過去を清算するつもりで、僕は正面を切ったんだから。」
「ここの主人
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