》ったり、爪《つめ》を切ったり、細かい面倒を見てくれる若い葉子の軟《やわ》らかい手触りは、ただそれだけですっかり彼女を幸福にしたものだったが、それが瑠美子の母として彼女をおいて出て行ったとなると、それは何といっても酷《むご》い運命であった。
「咲子ちゃん、葉子さんの写真を枕《まくら》の下へ入れているんですのよ。」
姉が庸三に話した。枕頭《ちんとう》へ行って見るとその通りであった。葉子は瑠美子の母で、もう今までのようにお前を愛していることはできないのだ――庸三はそれを言い聴《き》かすこともできなくて、ただ受動的に怺《こら》えているよりほかなかった。この子供と一緒に死ぬのも救いの一つの手だという気もした。
そこへ葉子の手紙だった。そして幾枚もの色紙に書かれた手紙と一緒に、咲子への贈りものの綺麗《きれい》な色紙もどっさり入っていた。それを病床へ届けてから、彼は子供と二人で幾枚かの切手のべたべた貼《は》られた封筒の消印を透かして見た。
「スタムプは猿楽町《さるがくちょう》の局ですよ。」
「ふむ――じゃ神田だ。しかし神田も広いから。」
「ひょっとしたら、一色《いっしき》さんが知ってやしないかな。」
彼はまさかと思った。一色が知っているような気もしたが、黙って引き退《さが》っている一色を、年効《としがい》もなく踏みつけにしていることを考えると、そう思いたくはなかった。葉子がどういうふうに一色を言いくるめたのか――それにも触れたくはなかった。彼は強《し》いても一色を見向かないことにしていたが、一色が蔭《かげ》で嗤《わら》っているようにも思えた。あたかもそれは借金の証文を握っている友達の寛容に甘えて、わざと素知らぬふうをしていると同じような苦痛であった。
「奥さんのある人、私やっぱりいい気持しないのよ。それに一色さん有閑マダムが一人あるんですもの。」
葉子は気休めを言っていたが、庸三の弁解には役立ちそうもなかった。それどころか、庸三は今葉子の手懸《てがか》りを一色に求めようとさえしているのだった。
「お前ちょっと一色んとこへ行って、様子を見て来てくれるといいんだけど。」
「そうですね。行ってもいいけれど……じゃちょっと電話かけてみましょうか。」
庸太郎は近所へ電話をかけに行ったが、じきに還《かえ》って来た。
「やはり行かないらしいですね。今来るそうです。あまり心配させてはいけないからって……一色さんいい人ですね。」
庸三は妻の死んだ時、金を持って来てくれたり、寂しい子供たちの気分を紛らせるために、ラジオを装置してくれたりした、一色の好意も思わないわけではなかったが、何か自我的な追求心も働いていた。撞着《どうちゃく》が撞着のようにも考えられなかった。葉子への優先権というようなものをも、曖昧《あいまい》な計算のなかへそれとなく入れてもいたのであった。
一色はタキシイを飛ばして来た。
「葉子さんいないんですてね。」
庸三はわざと一色が知らないようなふうにして、葉子の出て行った前後の話をした。――郵便の消印のことも。
「それですと、替り目の活動館を捜すのが一番早いんだ。替わるのは木曜ですからね。あの人の行きつけは南明座ですよ。」
「南明座かしら。」
庸三は幾度も同伴したシネマ・パレスを覗《のぞ》いてみようかと一度は思ったこともあったが、当てなしの捜索は徒《いたず》らに後の気持を寂しくするにすぎないのに気づいていた。もしかしたら誰か若い人とアベックだかも知れないという畏《おそ》れもあった。
「もしそれでも知れなかったら、私、神田の警察に懇意な男がいますから、調べてもらえばきっと知れますがね。」
「いや、そんなにしなくたって……。」
「いずれそのうち現われるでしょうけれど。」
そう言って、一色はしばらく話しこんでから、警察の人への紹介を名刺に書いたりして、帰って行った。
翌日の午後、庸三は神田の方へ出向いて行った。何ということなし子供も一緒だった。そして猿楽町辺をぶらぶら歩きながら、二三軒の旅館を訪ねてみたが、子供に興味のあるはずもないので、古本屋をそっちこっち覗《のぞ》いてから、神保町《じんぼうちょう》の盛り場へ出てお茶を呑《の》んで帰って来た。まだそのころは映画も思わせぶりたっぷりな弁士の説明づきで、スクリンに動く人間に声のないのも、ひどく表情を不自然なものにしていたので、庸三はわざわざ活動館へ入りたいとは思わなかったし、喫茶店にも興味がなかったが、子供とではたまにそういう処《ところ》へも足を容《い》れるのであった。
翌朝庸三は持越しの衝動的な気持で、駿河台《するがだい》の旅館街を彷徨《ほうこう》していた。
ずっと以前に、別れてしまった妻を追跡して、日光辺の旅館を虱潰《しらみつぶ》しに尋ねて、血眼で宿帳を調べてあるき、到
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