たるものに評価し、ひそかに憧憬《しょうけい》を寄せていたのだったが、合理的な清川のやり口の手堅さを知ることができたと同時に、葉子の色もいくらか褪《あ》せて来たような感じだった。
「先生霊枝さんと何かありゃしない。」
「笑談《じょうだん》じゃない、何もないよ。」
「そう。」
葉子も頷《うなず》いたが、田端へ引っ越したのも、まだ本当に切れていない雪枝から、完全に清川を奪い取るためだことは、庸三も気がついていなかったので、葉子の質問が、それを庸三が知っているのではないかという不安から来たものだということも知るはずはなかった。
「あの人も可哀《かわい》そうよ。番町にいる時、私一度飛び出したことがあるの。先生の処へ行こうと思って、濠端《ほりばた》の電車に乗ったら、あの人も追い駈《か》けて来たので、水道橋で降りててくてく真砂町《まさごちょう》の方へ歩いて行ったの。そうするとあの人も見え隠れに後からついて来て、あの辺の横町でしばらく鼬鼠《いたち》ごっこしているうちに、諦《あきら》めて帰って行ったものなの。私よほど赤門前の自動で先生へお電話しようと思ったんですけれど、そうなると先生の家の雰囲気がふっと浮かんで来たりして、急いで番町へ引っ返したものなの。あの人はいなかったけれど、やがて帰って来て私を見ると、赭靴《あかぐつ》のまんま上がって来ていきなり私に飛びついて泣いたのよ。阿母《おっか》さんとこへ寄って泣いて来たらしいの。」
「お株がはじまったわけだ。」
庸三はちびちび嘗《な》めた葡萄酒《ぶどうしゅ》に、いくらか陶然としていたが、その情景を想像して少し苛《いら》つき気味であった。
時間のたつのは迅《はや》かった、庸三は小遣《こづかい》を少しやって、十時ごろに彼女を還《かえ》した。
しかしそんなことも一度や二度ではなかった。ある時は同時ごろに、その家へ行くこともあったが、ある時は三十分も待たされることもあった。ぽつねんと独り待っているうちに、初夏の軽い雨が降り出し、瑠璃色《るりいろ》のタイルで張られた露台に置き駢《なら》べられた盆栽が、見る間に美しく濡《ぬ》れて行った。ここは汽車の音も間近に聞こえ、夜深《よふけ》には家を揺する貨車の響きもするのだったが、それさえ我慢すれば居心地《いごこち》は悪くなかった。時とすると、そのころ一年ばかりも小夜子と爛《ただ》れ合っていた、大衆作家の同志が広間に陣取っていて、一晩中陽気に騒いでいることもあって、そういう時には葉子も庸三もいくらか警戒するのだったが、不断は気のおけない場所であった。葉子は途中で降り出されて髪を濡らしていたが、
「なかなか出て来る隙《すき》がなかったもんで、八百屋へ買いものに行くふりして、途中で捩《も》ぎ放して来たの。あの人は私が先生にお金もらうことを、大変いやがってるの。」
「話したの?」
「そうじゃないけれど。」
庸三は苦しい時の小遣《こづか》い稼《かせ》ぎだという気もしながら、彼女の生活報告には興味があった。
「このごろ何か書いてる?」
「私たちは書く時は二階と下なのよ。私は下で書くのよ。清川は書けなくて困ってるの。私がぐんぐんペンが走るもんだから、なお苛《いら》つくらしいの。」
「君が仕事させないんだろ。」
「ううん、書く時はやっぱり独りがいいと思うわ。」
「君の書くものは気に入るまい。ペしゃんこにやられるんじゃないか。」
「ううん、よく議論はするけれど――。」
見るたびに葉子は生活に汚《よご》れていた。風呂《ふろ》へ入るとき化粧室で脱ぎすてるシミイズの汚れも目に立ったが、ストッキングの踵《かかと》も薄切れていた。相変らず賤《さも》しい愚痴も出て、たまに買って来る好きなオレンジも、めったに彼女の口へ入らず、肉や肴《さかな》も思いやりなく浚《さら》われてしまうのだそうであった。継子《ままこ》のように、葉子はそれが何より哀《かな》しげであった。
「こないだお金に困って、十掛けばかりある半襟を売ってもらおうと思って、阿母《おっか》さんに話したら、十円に買ってくれたの。あの中には一掛け十円するものもあるのにさ。」
もちろん葉子も真実《ほんとう》はそうお嬢さんなわけでもなかった。
「結婚してくれないのか。」
庸三が訊《き》くと、
「それもあの当時、貴女《あなた》なら似合いの夫婦だから、ちゃんと取りきめると言っていたものなのよ。でもお父さんが少し頑固《がんこ》なの。何しろあの家《うち》は、夫婦の反《そ》りが合わないの。お父さんという人は下町の商人気質の堅い一方なところへ、阿母さんは読書の趣味もあるし、昔の江戸ッ児《こ》風の教養や趣味があるもんで、清川兄弟が文学へ進むことにも共鳴があるわけなの。妹さんだって油画《あぶらえ》かきだわ。みんな阿母さん系統なわけなのよ。それにしても私に
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