ない?」
「先生のお仕事のお邪魔にならないようでしたら、すぐ行きますわ。」
 三十分するかしないうちに、海松房《みるぶさ》模様の絵羽の羽織を着た葉子が、廊縁《ろうべり》の籐椅子《とういす》にかけて、煙草《たばこ》をふかしている彼のすぐ目の下の庭を通って、上がって来た。行きつけの美容院へ行って、すっかりお化粧をして来たものらしく、彼女の顔の白さが薄闇《うすやみ》のなかに匂いやかに仄《ほの》めいた。

 ある日も庸三は葉子の部屋にいた。そこは他の部屋と懸《か》け離れた袋地のようなところで、廊下をばたばたするスリッパの音も聞こえず、旅宿人に顔を見られないで済むような部屋だった。寺の境内の立木の蔭《かげ》になっている窓に、彼女は感じの好い窓帷《カアテン》の工夫をしたりして、そこに机や本箱を据《す》えた。その部屋で、彼女のさまざまの思い出話を聞いたり、文学の話をしていると五時ごろにお寺の太鼓が鳴り出して、夜が白々と明けて来るので、びっくりして寝床へ入ることもあった。二三年したら結婚することになっている人が一人あるにはあるが、それを今考えることはないのだと、彼女は何かの折に言ったことがあったが、庸三にはそれが誰だか解《わか》るわけもなかった。一色じゃないかと聞くと、あの人には細君のほかに、何か古くからの有閑夫人もあるからと言うのだった。
「先生がそんなこと心配なさらなくともいいのよ。お気持悪ければいつでも清算することになっていますのよ。」
「もしかしてここへ来たら。」
「あの人決してそんなことしない人よ。」
 葉子は黒繻子《くろじゅす》の襟《えり》のかかった、綿のふかふかする友禅メリンスの丹前を着て机の前に坐っていたが、文房具屋で買った一輪|挿《ざ》しに、すでに早い花が生かっていて、通りの電車や人の跫音《あしおと》が何か浮き立っていた。彼女はよく庸三の家の日当りのいい端の四畳半へ入って、すっかり彼女に懐《なつ》いてしまった末の娘と遊んだものだが、一緒に風呂《ふろ》へも入って、頸《えり》を剃《そ》ってやったり、爪《つめ》を切ったりした。クリームや白粉《おしろい》なども刷《は》いてやるのだった。九つになったばかりの咲子は、母の納まっている長い棺の下へ潜《もぐ》りこんで、母を捜そうとして不思議そうに棺の底を眺めるのだったが、お母さんにはもう逢《あ》えないのだし、世間にはそういう子供さんも沢山あるのだから、もうお母さんのことを言ってはいけない。その代り貴女《あなた》には兄さんも姉さんも多勢いるのだと、庸三が一度言って聞かすとそれきりふっつり母のことは口へ出さなくなってしまった。しかしどうかするとむずかるらしく、剪刀《ナイフ》を投げられたりするから、あれは直さなければと葉子は笑いながら庸三に話すのであった。
「おばちゃんの足|綺麗《きれい》ね。」
 風呂で彼女は葉子の足にさわりながら言うのだったが、夜は葉子に寝かしつけられて、やっと寝つくことも多かった。彼女は茶の間や納戸《なんど》に、人知れずしばしば母を捜したに違いないのであった。しかし庸三は、自分の不注意で、一夜のうちに死んでしまった長女のことを憶《おも》うと、我慢しなければならなかった。恋愛にも仕事にも、ロオマンチックにも奔放にもなれない、臆病《おくびょう》にかじかんだ彼は、子供を突き放すこともできない代りに身をもって愛するということもできなかったが、生涯のこととか教育のこととか、一貫した誠意や思慮を要する問題は別として、差し当たり日常の家庭にできた空洞《くうどう》は、どこにも捻くれたところのない葉子が一枚加わっただけでも、相当紛らされるはずであった。二十五年もの長いあいだ、同じ軌道を走りつづけていた結婚生活を、不自然にもさらに他の女性で継ぎ足して行くことの煩わしさは解っていたが、加世子の位牌《いはい》を取り片着けて間もなく、彼は檻《おり》の扉《とびら》を開けたような気もしたのであった。
「さっそく困るだろ。君だって多勢《おおぜい》の子供をかかえて、仕事をしなくちゃならない。――待ちたまえ、僕にも心当りがないことはない。」
 葬儀委員長であった同じ年輩の鷲尾《わしお》は言うのであった。庸三は彼が目ざしているらしいものよりか、少しは花やかな幻を、それとなく心に描いていたものだったが、それは単に描いてみたというにすぎなかった。彼は堅く結婚を否定していた。今からの結婚が経済的にも精神的にも、重い負担であるのはもちろんであった。子供だけで十分だった。
 窓帷《カアテン》をひいた硝子窓《ガラスまど》のところで、瀬戸の火鉢《ひばち》に当たって小説の話をしていると、電話がかかって来て、葉子は下へおりて行った。
「一色?」
 部屋へ入って来た時の葉子の顔で、庸三は感づいた。
「自動車を迎いによこすから、ちょっ
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