らの成行きを探ろうとはしなかったであろうが、彼はこの事件もちょうどここいらで予期どおりの大詰が来たのだし、自身の生活に立ち還《かえ》るのに恰好《かっこう》の時機だと知って、心持の整理は八分どおりついていながら、まだ何か葉子の匂いが体から抜けきらないような、仄《ほの》かな愛執もあって、それからそれへと新らしい恋愛を求めて行く彼女を追跡したいような好奇心に駆られていた。ある時は彼もぴったり心に錠を卸してしまい、あの憂鬱《ゆううつ》な日常から解放された気易《きやす》さで、庭へ出て花畑の手入れをしたり、蔓《はびこ》る雑草を刈り取ったり、読みさしの本を読んだりするのだったが、そうしているとまたつい独身ものの気弱さというようなものにも、襲われがちで、まだ記憶の新しい亡き妻の思い出を超《こ》えて、ずっとその奥の方にぼやけている亡き愛嬢の面影や、死の前後のことが不意に彼を感傷の涙に誘うのであった。夜なかに目がさめてその娘のことが浮かんで来ると、いつでも胸が圧《お》されるようになって、病的な涙が限りなくにじみ出て枕《まくら》にまで伝わりおちるのであった。そしてその次ぎには、死ぬまで――いつもうっちゃりぱなしにしておいた母に詫《わ》びたいような弱さに引き入れられた。妻はといえば、十分愛したつもりの庸三には悔いるところもなかった。
庸三は昼間も床を延べさせて、うつらうつらとしているようなことも多かったが、葉子が庸三を裏切ったと言って憤慨している権藤青年の誘いもあって、今一度葉子に会う機会を作りはしたが、上野の鳥料理で金を渡して別れてしまってからは、急に遠い人になってしまった感じで、憑《つ》きものが落ちたような空虚な自身を見出《みいだ》すのであった。彼は葉子たちの結婚が順調に行くことを祈る気持になるかと思うと、彼女が普通|真面目《まじめ》な家庭に納まりきれない性格の持主だというところから、持前の浮気な熱情でせっかく飛びついて行っても、じきにまた破綻《はたん》が来るであろうことを、ひそかに希《ねが》ったりしていたのも真実で、今後もし逢《あ》う機会があっても、もう今までのような気持では逢ってもいられないだろうし、反動的な嫌悪《けんお》の情が彼の総身に寒気《さむけ》を立てさすであろうとは思ったが、それと同時に、何か腹癒《はらい》せに彼女をさんざん弄《もてあそ》んでやりたいような悪魔的な野心も芽生《めば》えないわけに行かなかった。
すると金をハンド・バッグに仕舞って、あれほど悦《よろこ》んで飛んで帰って行った葉子が、間三日もおかないうちに、近所の例の安栄旅館から電話をかけて来た。
まだ宵《よい》のことで、彼は殺風景な応接室で、子供と一緒にお茶を呑《の》みながらレコオドを聴《き》いていたが、そうした家庭人になってみると、母のない子供の日常にも、何かはかない感じがまざまざ感じられて来て、楽しい気持にもなれないのであった。
庸三は自分への電話だときいて、門を出ていつも取り次いでくれている下宿屋の電話室へ入って行った。多分小夜子が花でも引こうというのだろうと思って、受話機を取ってみると思いがけなくそれが葉子の声なのに驚いた。
「ああ、先生。私よ。」
「どうしたんだ。どこにいるんだい。」
「安栄旅館よ。先生にお話ししたいことがあって、今出て来たばかりよ。御飯食べながら聴いていただこうと思って。」
「何だろう。」
「来てよ。すぐよ。」
庸三は懲りずまに、また葉子に逢いに行った。
葉子は前二階の部屋にいた。スウト・ケイスやハンドバッグが床の間にあって、旅行からでも帰って来たようなふうで、髪も化粧も崩れていた。
「どうもすみません、お呼び立てして……。」
彼女は金屏風《きんびょうぶ》のところにあった座蒲団《ざぶとん》をすすめたりした。
「スウト・ケイスどうしたの。旅行?」
「そのつもりでしたのよ。私たちを保護してくれることになっている、園田の従兄《いとこ》の黒須さんね。あの人がどうも不安なのよ。」
「どう不安なのさ。」
「あの人が私に色気をもつからいけないのよ。」
なるほど! と庸三は思った。
「それにあの人こわいのよ。もと外務畑の人だそうだけれど、今は院外団か何かでしょうか、乾分《こぶん》も多勢《おおぜい》あるらしいの。別に悪い人でも乱暴な男でもなさそうだけれど、ちょっと気のおけないところがあるのよ。男前も立派だし、年も若いわ。奥さんもインテリでいい人なんだけれど、どうもあの人、私に対する態度が変なのよ。この間も縁側で園田の膚垢《ふけ》を取ってやっていると、あの人が傍《そば》へ来て、冷やかし半分|厭味《いやみ》を言ったりするの。」
「そんなこと気にすることないじゃないか。」
「それあそうだけれど……。」
葉子は少し顔を紅《あか》らめて、
「だけどあの人
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