戯《いたずら》そうな目をして、鼻頭へ人差し指をもって行った。
「そうね。また鴨《かも》にしようというんだろうが、おれも家内のいるうちは、どじばかり踏んで叱《しか》られたもんだが、このごろ少し性格に変化が来たようなんで。」
「元はもっと下手だったわけね。」
 小夜子は笑った。
 その晩庸三は、小夜子の家で遅くまで花を遊んだが、遊びに来ていたジャアナリストや漫画家も一緒だった。

 ある晩庸三と葉子はデネションの舞踊を見に行って、そこで同窓の仲間と一緒に来ている庸太郎にも出逢《であ》った。そのころ庸三はしばらく家をあけていた。あれきりにもなり得ないで、彼は何かのきっかけから、人目の少ない銀座のモナミの食堂で、葉子と晩飯を食ったり、新らしく出来あがった武蔵野《むさしの》映画館へそっと入ったりしているうちに、また逗子へも行くことになった。
 そのころ大戦後の疲弊から、西欧の一流芸術家が、まだしも経済状況の比較的良かった日本を見舞って、ちょうどレコオド音楽の普及しつつあった青年のあいだに、不思議な喝采《かっさい》を博していた。庸三も、ずっと前から軍楽隊の野外演奏の管弦楽《かんげんがく》や、イタリイのオペラなど聴《き》いたり見たりしていたが、レコオドの趣味もようやく濁《だ》みた日本の音曲が、美しい西洋音楽と入れかわりかけようとしていた。エルマンを聴いて、今まで甘酸《あまず》っぱいような厭味《いやみ》を感じていた提琴の音のよさがわかり、ジムバリスト、ハイフェツなどのおのおのの弾《ひ》き方の相違が感づけるくらいの、それが古い東洋式の鑑賞癖でしかなかったにしても、この年になって、やっと汗みずくで取り組みつつある恋愛学から見れば、まだしも地についていると言ってもよかった。家庭での庸三夫婦と子供との新しい旧《ふる》い趣味のひところの衝突も、もうなくなっていた。上野の音楽学校で演奏された、ベエトヴェンの第九シムフォニイを聴きに行った庸太郎を、ちょうど何かの用事の都合で、夫婦で広小路まで出かけて行ったついでに、動物園の附近で、待ちあわせていたことがあったが、ちょうど演奏の了《お》わる時刻だったので、やがて制服姿の彼が肩をすぼめながら、おそろしい厳粛な表情で、傍目《わきめ》もふらずとっとと二人の前を行きすぎようとしたことがあったが、それももう古い過去となってしまった。
 このデネションの前に、それは去年のことだったが、同じアメリカの舞踊団がやって来て、その時も庸三は庸太郎に前売切符を買わせて、座席を三人並べて観《み》たものだったが、新調のシャルムウズの羽織などを着込んだ葉子が一番奥の座席で、隣りが庸太郎、それから庸三という順序で、オーケストラ・ボックス間近に陣取っていた。開演にはまだ時間が早く、下も二階も座席が所々|疎《まば》らに塞《ふさ》がっているきりであった。黄昏《たそがれ》に似た薄暗さの底に、三人はしばらくプログラムを見ていたが、葉子は中に庸太郎という隔てのあるのを牴牾《もどか》しがるようなふうもしていた。
「出よう。」
 庸三が煙草《たばこ》をふかしに廊下へ出ると、二人も続いて出た。震災のとき、やっと火を消しとめたこの洋風の劇場は、そのころようやく新装が仕揚がったばかりで、前の古典的な装飾が、ぐっと瀟洒《しょうしゃ》なものになっていた。三人は婦人休憩室へ入って、赤い縞《しま》の壁紙などを見まわしていたが、ふと庸太郎が父に声かけた。
「二階のホール御覧になりましたか。」
「さあ、どうだったかしら。」
「それあ綺麗《きれい》ですよ。ここではあすこの趣味が一番いい。」
「そう、見たい。」
 葉子は甘えるように言った。
「行ってみませんか。」
 すると葉子も行きかけて、
「先生は? いらっしゃらない。」
「いいや、見てくるといい。」
 庸三は少し尖《とが》っていたが、やはりじっとしていられない質《たち》で、二人の影が階上へ消えてから、廊下をぶらぶら歩きはじめた。入口のホールへ出てみると、美々しいドレスの外人も二組三組そこここに立話をしていたが、まだそんなに込んでもいなかった。「私をもっていることに十分誇りをもっていて下さい」とでも言いそうな葉子と二人きりで、晴れがましい劇場の廊下など押し歩くのが気恥ずかしく、大抵の場合子供を加担させて擬勢するのが彼の手だったが、子供に委《ま》かしきりにしておくのも何か不安であった。わざと危険に曝《さら》しながら、心は穏やかではなかった。
 ちょうど知った顔もそこに見えて、彼は円形のクションに並んでかけながら、しばらく世間話をしていた。
「君は実に羨《うらや》ましいよ、若い綺麗な恋人なんかもって。」
 いつも剽軽《ひょうきん》そうなその友達にそう言われて、庸三は寂しそうにうつむいた。
 それからまた一人二人の仲間にも逢って
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