かりのことで気まずい思いをするのもいやだった。些細《ささい》なそんな拘泥《こうでい》も手伝って、彼は朝飯もろくろく喉《のど》へ通らなかった。しかも勘定を取ってみると、それを払ってチップをやっても汽車賃には事欠かないほどだった。彼は葉子のところへ行く口実もなくなったのに少し力を落としながら、やがて自動車を呼んでもらった。
 表に爆音が聞こえて来た。庸三は葉子に黙って帰るのも悪いような気もしながら、彼女の家のある狭い通りを左に見て、今ごろは彼女たち三人と子供とで何をしているかと想《おも》ってみたりして、流れに沿った道を通って行った。
 汽車に乗ってみると、彼の気持もようやく落ち着いて来た。いつものように傍《そば》に葉子のいないのを物足りなく感じながらも、憂鬱《ゆううつ》な囹圄《ひとや》から遠のいて来た心安さもあった。
 家へ帰って書斎へ入ると、彼は半病人のような体の疲れと衰えを感じて、何はともあれ床をのべさせて横たわると同時に、女中に命じて日頃かかりつけの渡瀬《わたせ》ドクトルにいつものように来てもらった。
 やがてドクトルは糊《のり》に硬張《こわば》った診察着でやって来て、ベッドの傍に膝《ひざ》をついて聴診器をつかいはじめた。
「私も女関係で苦しむものですから……。」
 庸三がきまりわるそうに呟《つぶや》くと、ドクトルも苦笑して、
「なに、結構ですよ。」
「少し熱っぽい感じですが。」
 庸三は前から気管が悪いので、五六年海岸で暮らすようにと、前からドクトルに言われていたものだが、ドクトルも胸部を叮嚀《ていねい》に診《み》ていた。
「やっぱり神経衰弱ですね。薬をあげますから、よく眠るんですな。」
 紅茶を呑《の》みながら少し話して、ドクトルが帰ってから、庸三はうとうと眠りに誘われた。悪夢にうなされているような日常は、ふつふついやだと思いながら、いつかまた彼女の夢を見ていたことに気がついた。

 翌日になると、寝飽きた彼はもう床についてもいられなかった。彼は心の落着きを求めようと思って、乱雑に床の間に積み重なっている書物を引っくらかえしてストリンドベルグの小説を抜き出して来て開いてみた。彼は何か文学的な渇きをおぼえていたが、創作力の貧困にも気づいていたので、独りで書斎にいると、自分を支えきれないように寂しさに打たれた。世間ではモダアンな新興芸術が、花やかな行進曲を奏している一方、マルキシズムの研究が流行しはじめ、プロレタリアの文学が到《いた》るところに気勢を挙げていて、何かあわただしい潮が渦《うず》をまいていた。

 しばらく庸三は小夜子と、小夜子の仲好しの友達なぞと遊ぶ幾日かの昼や夜をもつことができた。
 小夜子の仲間にも、いろいろの女がいた。家政婦に頼んだらどうかと言って、いつか小夜子が写真を見せてくれた女もその一人であった。小夜子と並んで歩いていると、むしろこの方が立派に見えることさえあったが、近よって話を交えてみると、げっそりするようなところもあった。笑うと出っ歯の齦《はぐき》の露出するのも気になったが、お品が悪くはないながらに口の利き方や気分に、どこか肥料《こやし》くさいようなところがあった。何かぎすついた粗硬な感じで、小夜子の言うように、田舎《いなか》では立派な財産家の奥さまであったらしい、品格もないことはなかったが、話題はいつも低級であった。庸三は時に小夜子の帳場で、お行儀よく坐っている彼女を見かけるのだったが、渋い作りの身装《みなり》もきちんとしていたが、ごつい金歯がひどく顔の感じを悪くしていた。
 庸三は妻のある間は、どんな美しい女にも目が留まらなかったし、何か仄《ほの》かに引っかかるもののある感じのする売色《くろうと》にも、その場きりの軽い興味をもち得る機会が、長いあいだにはたまにあったとしても、女を愛する資格があるとは思っていなかったので、自然恋愛を頭から否定してかかっていたのだったが、今葉子との恋愛が破綻《はたん》百出の状態におかれてみると、何か意地の汚い目がとかく世間の女性へと注がれがちであった。
 彼は小夜子につれられて、おけいさんというこの女の人の家《うち》へも一度遊びに行ってみた。おけいさんは三田《みた》の方の、ある静かなところに門のある家を借りていた。十六七の姪《めい》が一人|田舎《いなか》から出て来ていて、二階には三田の学生が二人ばかり下宿していた。古風な中庭には泉水などがあって、躑躅《つつじ》が這《は》いひろがり、楓《かえで》の若葉がこんもりした陰影を作っていた。四畳半の床の間には、白い平鉢《ひらばち》に、こってりした生花がしてあって、軸や雲板《うんばん》もそうひどいものではなかった。おけいさんにはお茶の心得もあるらしかった。物綺麗《ものぎれい》でこぢんまりしたところは、妾宅《しょうたく》のよう
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