こ》すはずの金を、小夜子の掛引きでかクルベーの思い違いでか、いずれにしても彼の態度が気にくわぬので、押しかけて行って弾《はじ》き返されるのが癪《しゃく》だというように聞こえた。
 クルベーはまだ十分小夜子に未練をもっていた。彼は今少し何とか景気を盛りかえすまで、麹町《こうじまち》の屋敷に止《とど》まっているように、くどく彼女に勧説《かんぜい》したのであったが、小夜子は七年間の不自然な生活も鼻についていた。クルベーのように、自分を愛してくれたものもなかったが、クルベーほど彼女のわがままを大目に見てくれたものもなかった。若い歌舞伎《かぶき》俳優と媾曳《あいびき》して夜おそく帰って来ると、彼はいつでもバルコニイへ出て、じっと待っているのだった。
「貴女《あなた》浮気して来ました。いけません。」
 美しい大入道のクルベーはさすがに、顔を真赤にして怒っていた。
 またある時は、病気にかこつけて、温泉場の旅館で、芳町時代から、関係の断続していた情人と逢《あ》っているところへ、いきなりクルベーに来られて、男が洋服を浚《さら》って、縁から転《ころ》がり落ちるようにして庭へ逃げたあとに、時計が遺《のこ》っていたりした。しかしクルベーは小夜子を憎まなかった。目に余るようなことさえしなければ、彼の目褄《めづま》を忍んでの、少しばかりの悪戯《いたずら》は大目に見ようと思っていた。彼はその一人|子息《むすこ》が、自転車で怪我《けが》をして死んでから、本国へ引き揚げる希望もなくなっていた。武器を支那《シナ》へ売りこもうとして失敗して以来、日本の軍部でも次第に独逸製品を拒むような機運が向いて来た。しかし小夜子が彼の屋敷を出たのには、切れても切れられない関係にあった、長いあいだの男の唆《そその》かしにも因《よ》るのであった。ようやくクールベから離れて来てみると、裏店《うらだな》へでも潜《くぐ》らない限り、その男とも一緒に行けないことも解《わか》って来た。
 水ぎわの家《うち》を初めてからも、クルベーはそっとやって来て、この商売はやってもいいから、たまには逢うことにしようと言うのだったが、近所が煩《うる》さいし、人気商売だから、寄りついてくれても困ると言って、小夜子はぴったり断わった。――と小夜子はそういうふうに話していたが、まるきり縁が切れてしまったものとも思えなかった。
 小夜子は今夜のように酔っていたこともなかったが、庸三も少し酔っていたので、何かの弾《はず》みで一緒に自動車に載せて家へつれて来た。小夜子が新らしい庸三の部屋へ入るのは、今夜に限ったことでもなかったが、葉子の留守宅の二階からすぐ見下ろされるような門を二人で入った時には、庸三も自身の気紛《きまぐ》れな行為に疑いが生じた。かつての庸三夫婦もお互いに牽制《けんせい》され合っているにすぎなかったとは言え、口を利かないものの力も、まるきり無いわけには行かなかった。
 小夜子を奥へ通すと、ちょうど遊びに来ていた青年作家の一人と一緒に、長男の庸太郎も出て来て、面白そうに酔った小夜子を見ていた。小夜子は握り拳《こぶし》で紫檀《したん》の卓を叩《たた》きながら、廻らない舌で何か熱を吹いていた。
「私は三十三なんだ。」
 と、それだけが庸三の耳にはっきり聴《き》き取れるだけで、何をきいても他哩《たわい》がなかった。
 間もなく彼女はふらふらと立ちあがった。
「お前ちょっと送ってくれないか。」
 庸三は子供に吩咐《いいつ》けたが、送って応接室まで出て行くと、小夜子はふと立ち停《ど》まって、誰という意識もなしに、発作的に庸三の口へ口を寄せて来た。やがて玄関へおりて行った。
 四十分もすると庸太郎が帰って来た。
「面白いや、あの女。」
「どうした。」
「番町の独逸人の屋敷へ行くというから、一緒に乗りつけてみると、ドアがぴったり締まっているんだ。いくら呼び鈴を押しても、叩いても誰も出てこないもんだから、あの人|硝子戸《ガラスど》を叩き破ったのさ。出て来たのは立派な禿頭《はげあたま》の独逸人でね、暴《あば》れこもうとするのを突き出すのさ。そして僕の顔を見て、貴方《あなた》は紳士だから、この酔っぱらいを家まで連れて行ってくれ。こんなに遅く、戸を叩いたりして外聞が悪いからと言うもんだから、まあ宥《なだ》めて家まで送りとどけたんだけれど、自動車のなかで滅茶《めちゃ》苦茶にキスされちゃって……。手から血が流れるし、ハンケチで括《くく》ってやったけれど。いや、何か癪にさわったことがあるんですね。――それにしても、あの独逸人は綺麗《きれい》なお爺《じい》さんだな。」
 庸三は黙って聞いていた。

 ある日古い友達の山村が、ふと庸三の部屋へ現われた。作家であった山村は瀬戸物の愛翫癖《あいがんへき》があったところから、今は庸三の家から
前へ 次へ
全109ページ中50ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳田 秋声 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング