あった。瑠美子のために、庸三が邪魔になることもしばしばであった。ある時などは、婦人文芸雑誌の編輯《へんしゅう》をしているF――氏の前で、はしなく二人の雰囲気《ふんいき》が険しくなり、庸三は帰って行くF――氏と一緒に玄関を降りぎわに烈しい言葉で彼女を罵《ののし》ったのだったが、そうして別れた後で、彼はやはり独りで苦しまなければならなかった。
 その時も庸三の気持は、ちょっと葉子から遠くなっていた。彼は家政婦に出てもいいと言っているとかいう、小夜子の友達の一人の女の写真などを見ていた。家政婦といっても、双方よければ、それ以上に進んでもかまわないという意味も含まれているらしかった。
「写真より綺麗《きれい》ですよ。私の姉の田舎《いなか》で家柄もいいんです。いい家《うち》へ片づいていたんですけれど、御主人が商売に失敗して、家が離散してしまったんですの。」
 小夜子は言っていたが、その女はしかし庸三の好みの型ではなかった。
 そこへ葉子から電話がかかったのだったが、庸三は急いで帰る気もしなかった。
「先生があまり葉子さんに甘いからいけないのよ。うっちゃっときなさいよ。」
 側にいた小夜子の別の友達が言うと、
「帰ってあげなさいよ。」
 と小夜子は言うのであった。庸三はやがて小夜子の友達の女と一緒に乗って、白木の辺で彼女をおろして、葉子のところへ帰った。友達の女は、車のなかで鉛筆でノオトの片端に所と名前とを書いて、どうぞお遊びにと言って手渡した。

「ちょっといいから行ってみない?」
 二人は食事をしまって、梨子《なし》を剥《む》いていた。
「行ってもいいけれど……行きましょう、水を見に。」
 葉子は外《そ》らさず言ったが、真実《ほんとう》は気が進まなかった。
「何だかいやだな、そういう人。」
 自動車に乗ってから、彼女は神経質になった。
「家を見るだけさ。」
「それならいいけれど。」
 通された下座敷で、葉子は窓ぎわに立って水を見ていたが、彼女がここへ来るのに気が差したのは、あながち今までにもある意味の好い生活をして来たらしいマダムに逢《あ》うのが憂鬱だったばかりでなかった。小夜子の門と向き合って、そこにかなり立派なコンクリートの病院のあることと、その主《あるじ》が毎夜のように、小夜子の煩《うるさ》がるのも頓着《とんちゃく》なしにそっと入り浸っていることは前にも書いた通りだが、そこが学校を出たての葉子が、音楽学校入学志望で、かつてしばらく身を寄せていた処《ところ》であったということも、葉子を躊躇《ちゅうちょ》させたものに違いなかった。
 小夜子の家では、いつもと違って、サアビスぶりはあまりよくなかった。そして今上がりぎわに、ちょっと薄暗い廊下のところでちらとその姿を見かけた小夜子が、盛装して二人の前に現われるのに、大分時間がかかった。二人は照れてしまったが、葉子は部屋の空虚を充《み》たすために、力《つと》めて話をしかけた。そこへ真白に塗った小夜子が、絵羽の羽織を着て嫻《しと》やかに入って来た。そして入口のところに坐った。
「梢《こずえ》さんでしょう。」
 小夜子はそう言って、挨拶《あいさつ》すると、今夜は少しお寒いからと、窓の硝子戸《ガラスど》を閉めたりして、また入口の処にぴったり坐ったが、表情が硬《かた》かった。
 葉子は立って行って、小夜子と脊比《せいくら》べをしたりして、親しみを示そうとしたが、いずれも気持が釈《と》かれずじまいであった。
「やっぱりそうかなあ。」
 庸三は後悔した。するうち小夜子を呼びに来た。客が上がって来たらしかった。
「私今夜ここで書いてもいい?」
 葉子は書く仕事を持っていることに、何か優越を感ずるらしく、庸三が頷《うなず》くと、じきに玄関口の電話へ出て行って、これも新調の絵羽の羽織や原稿紙などを、自動車で持って来るように、近所の下宿屋を通して女中に吩咐《いいつ》けた。
 しかし間もなく錦紗《きんしゃ》の絞りの風呂敷包《ふろしきづつ》みが届いて、葉子がそのつもりで羽織を着て、独りで燥《はしゃ》ぎ気味になったところで、今夜ここで一泊したいからと女中を呼んで言い入れると、しばらくしてから、その女中がやって来て、
「今夜はおあいにくさまですわ。少し立て込んでいるんですのよ。」
 庸三はその素気《そっけ》なさに葉子と顔を見合わした。やがて自動車を呼んで、そこを出てしまった。
「小夜子さん光一《ぴかいち》でなきゃ納まらないんだ。」
 葉子は車のなかで言った。
 ある夜も小夜子はひどく酒に酔っていた。
 酒のうえでの話はよくわからなかったけれど、片々《きれぎれ》に口にするところから推測してみると、とっくに切れてしまったはずのクルベーが、新橋の一芸者を手懐《てなず》けたとか、遊んでいるとかいうようにも聞こえたし、寄越《よ
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