。」
瞬間葉子は肩を聳《そび》やかせて言い切った。
「いや、私は誰とも結婚なんかしようとは思いません。私はいつも独りでいたいと思っています。」
そういう葉子の言葉には、何か鬱勃《うつぼつ》とした田舎ものの気概と情熱が籠《こ》もっていた。そして話しているうちに何か新たに真実の彼女を発見したようにも思ったが、ちょっと口には出せない慾求も汲《く》めないことはなかった。
彼は後刻近くの彼女の宿を訪ねることを約束して別れたのであったが、晩餐《ばんさん》の支度《したく》をして待っていた葉子は、彼の来ないのに失望して、間もなく田舎へ帰って行った。
一色と彼女のあいだに、その後も手紙の往復のあったことは無論で、月々一色から小遣《こづかい》の仕送りのあったことも考えられないことではなかった。
加世子の死んだ知らせに接してにわかに上京した葉子は、前にいた宿に落ち着いてから、電話で一色を呼び寄せた。そして二人打ち連れて庸三の家を訪れた。その時から彼女の姿が、しきりに彼の寂しい書斎に現われるようになったのだったが、庸三も親しくしている青年たちと一緒に、散歩の帰りがけにある暮方初めて彼女の部屋を訪れてみた。十畳ばかりのその部屋には、彼の侘《わび》しい部屋とは似ても似つかぬ、何か憂鬱《ゆううつ》な媚《なま》めかしさの雰囲気《ふんいき》がそこはかとなく漾《ただよ》っていた。
二
葉子は何か意気な縞柄《しまがら》のお召の中古《ちゅうぶる》の羽織に、鈍い青緑と黝《くろ》い紫との鱗形《うろこがた》の銘仙の不断着で、いつもりゅうッ[#「りゅうッ」に傍点]とした身装《みなり》を崩さない、いなせ[#「いなせ」に傍点]なオールバック頭の、大抵ロイド眼鏡をかけている一色と一緒に、寂しい夜の書斎に独りぽつねんとしている庸三をよく訪れたものだったが、そのころにはいつまでも床の前に飾ってあった亡妻の位牌《いはい》も仏壇に納められて、一時衰弱していた躯《からだ》もいくらかよくなっていた。妻の突然の死で、彼は凭《もた》れていた柱が不意に倒れたような感じだった。加世子は自分が生き残るつもりで庸三の死んだ後のことばかり心配していたのだったが、庸三も健康に自信がもてないので、大体そのつもりでいたが、無計画に初まったこの家庭生活はどこまでも無成算で、不安な心と心とが寄り合ってどうにかその日その日を生きていたものであった。最近少し余裕が出来たので、音楽好きの子供にねだられて、やっとセロを一|梃《ちょう》買ってやった妻に、彼はあまり好い顔をしなかった。ラブレタアが投函《とうかん》されていたことを、何かのおりに感づいて、背広を着て銀座の喫茶店へなぞも入るらしい子供がいつの間にか父に叛逆的《はんぎゃくてき》な態度を示すのに神経を痛めている折なので彼はむき[#「むき」に傍点]になった。しかし加世子は怒りっぽい庸三を、子供に直面させることを怖《おそ》れて、いつも庸三を抑制した。今は父子のあいだの緩衝地帯も撤廃されたわけだった。日蔭もののように暮らして来た庸三の視界がにわかに開けていた。風呂《ふろ》へ入るとか、食膳《しょくぜん》に向かうとかいう場合に、どこにも妻の声も聞こえず、姿も見えないので、彼はふと片手が※[#「※」は「てへん+毟」、第4水準2-78-12、146-上-18]《も》げたような心細さを感ずるのだったが、一方また思いがけなく若い時分の自由を取り戻したような気持にもなれた。彼は再婚を堅く否定していたので、さっそく何か世話しようと気を揉《も》んでいる人の友情に、何の感じも起こらなかったが見知らぬ世間の女性を心ひそかに物色してもいた。女性の前に今まで膝《ひざ》も崩さなかった儀容と隔心とが、自然に撤廃されそうであった。
葉子は下宿へ逢《あ》いに来る一色と対《つい》で二三度庸三の書斎に姿を現わしたが、ある晩到頭一人でやって来て机の前にいる彼に近づいた。
「私先生のところへ来て、家事のお助《す》けしたいと思うんですけどどう?」
葉子は無造作に切り出した。庸三はその言葉が本当には耳へ入らなかった。
「あんたに家庭がやれますか。」
「私家庭が大好きなんですの。」
「それあ刺繍《ししゅう》や編物はお得意だろうが、僕の家庭と来たら…………。」
「あら、そんな! 私台所だってお料理だってできますの。子供さんのお相手だって。」
「そうかしら。」
葉子は少し乗り出した。
「先生の今までの御家庭の型や何かは、そっくりそのまま少しも崩さずに、先生や子供さんのために、一生懸命働いてみたいんですのよ。それで先生の生きておいでになる間、お側にお仕えして、お亡くなりになったら、その時は子供さんたちの御迷惑にならないように、潔《いさぎよ》く身を退《ひ》きます。」
「貴女《あなた》はどうするんで
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