性を択《えら》ぶのに、便利な立場にある花柳界の女たちを羨《うらや》ましく思ったわけだったが、彼によって紹介された山の手のカフエへ現われるようになってから、彼女の気分もいくらか晴々して来た。
 持越しの長篇が、松川の同窓であった、ある大新聞の経済記者などの手によって、文章を修正され、一二の出版|書肆《しょし》へまわされた果てに、庸三のところへ出入りしている、若い劇作家であり、出版屋であった一色《いっしき》によって本になったのも、ちょうどそのころであった。ある晩偶然に一色と葉子が彼の書斎で、初めて顔を合わした。一色はにわかに妻を失って途方にくれている庸三のところへ、葬儀の費用として、大枚の札束を懐《ふとこ》ろにして来て、「どうぞこれをおつかいなすって」と事もなげな調子で、そっと襖《ふすま》の蔭《かげ》で手渡しするようなふうの男だったので、たちどころに数十万円の資産を亡くしてしまったくらいなので、庸三がどうかと思いながら葉子の原稿の話をすると、言い出した彼が危ぶんでいるにもかかわらず、二つ返辞で即座に引き受けたものだった。
「拝見したうえ何とかしましょう。さっそく原稿をよこして下さい。」
 ちょうど卓を囲んで、庸三夫婦と一色と葉子とが、顔を突きあわせている時であったが、間もなく一色と葉子が一緒に暇《いとま》を告げた。
「あの二人はどうかなりそうだね。」
「かも知れませんね。」
 後で庸三はそんな気がして、加世子と話したのであったが、そのころ葉子はすでに良人《おっと》や子供と別れ田端の家を引き払って、牛込《うしごめ》で素人家《しろうとや》の二階に間借りすることになっていた。美容術を教わりに来ていた彼女の妹も、彼女たちの兄が学生時代に世話になっていたというその家に同棲《どうせい》していた。葉子は一色の来ない時々、相変らずそこからカフエに通っているものらしかったが、それが一色の気に入らず、どうかすると妹が彼女を迎いに行ったりしたものだが、浮気な彼女の目には、いつもそこに集まって陽気に燥《はしゃ》いでいる芸術家仲間の雰囲気《ふんいき》も、棄《す》てがたいものであった。
 庸三は耳にするばかりで、彼女のいるあいだ一度もそのカフエを訪ねたことがなかった。それに連中の間を泳ぎまわっている葉子の噂《うわさ》もあまり香《かん》ばしいものではなかった。

 加世子の訃音《ふいん》を受け取った
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