な場末で、葉子の家もそう遠くなかった。
 庸三が寝起きしている離れの前には、愛らしい百日草が咲き盛っていたが、夏らしい日差しの底にどこか薄い陰影があって、少しでも外気と体の温度との均衡が取れなくなると、彼は咳をした。葉子は取っ着きの家からシャツを取ってくれたりしたが、母親は母親で、蔵にしまってある古いものの中から、庸三が着ても可笑《おか》しくないような黄色いお召の袷《あわせ》や、手触りのざくりとした、濃い潮色《うしおいろ》の一重物《ひとえもの》を取り出して来たりした。ある日はまたにわかに暑くなって、葉子は彼をさそって橋の下から出る蟹釣船《かにつりぶね》に乗って、支那《シナ》の風景画にでもあるような葦《あし》の深いかなたの岩を眺めながら、深々した水のうえを漕《こ》いで行った。葉子の家の裏あたりから、川幅は次第に広くなって、浪に漾《ただよ》っている海猫《うみねこ》の群れに近づくころには、そこは漂渺《ひょうびょう》たる青海原《あおうなばら》が、澄みきった碧空《あおぞら》と融《と》け合っていた。
「明朝《あした》蟹子《かにこ》持って来るのよ。きっとよ。私の家《うち》知っているわね。」
 葉子は帯の間から蟇口《がまぐち》を出して、いくらかの金を舟子に与えたが、舟はすでに海へ乗り出していて、間もなく渚《なぎさ》に漕ぎ寄せられた。葉子は口笛を吹きながら、縞《しま》セルの単衣《ひとえ》の裾《すそ》を蹇《かか》げて上がって行くと、幼い時分から遊び馴《な》れた浜をわが物顔にずんずん歩いた。手招きする彼女を追って行く庸三の目に、焦げ色に刷《は》かれた青黛《せいたい》の肌の所々に、まだ白雪の残っている鳥海山の姿が、くっきりと間近に映るのであった。その瞬間庸三は何か現世離れのした感じで、海に戯れている彼女の姿が山の精でもあるかのように思えた。庸三はきらきら銀沙《ぎんさ》の水に透けて見える波際《なみぎわ》に立っていた。広い浜に人影も差さなかった。
「僕の田舎の海よりも、ずっと綺麗《きれい》で明るい。」
「そう。」
 彼は彼女の拡《ひろ》げる袂《たもと》のなかで、マッチを擦《す》って煙草《たばこ》を吹かした。
「君泳げる?」
「海へ入ると父が喧《やかま》しかったもんで……。」
「何だか入ってみたくなったな。」
 庸三は裸になって、昔、郷里の海でしたように、不恰好《ぶかっこう》な脛《すね》――腿《
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