葉子に当てつけるわけでもなかったが、彼女の感情を庇護《かば》う余地はなくなっていた。
「マダムいる?」
 庸三が微声《こごえ》できくと、
「ああ、先生ですか。マダムは昨夜静岡へ立ちましたの。」
 静岡には小夜子の種違いの、多額納税者の姉が、とかく病気がちに暮らしていた。
「でもいらっしゃいませんか。今どこですの。」
「そうね。」
 いきなり葉子が寄って来て、受話機を取りあげた。
「どこへかけたの。」
「どこだっていいじゃないか。君は渋谷へ帰りたまえ。僕は一人で帰る。」
 やがて車が来たので、彼は葉子を振り切って、玄関口へ出ると、急いで車に乗ろうとしたが、その時は葉子もすでにドアに手をかけていた。
 スピイドの出た車のなかで、険しい争いが初まったと思うと、葉子はにわかに車を止めさせてあたふた降りて行ったが、一二町走ったと思うころに、後ろから呼びとめる声がしたかと思うと、葉子の乗った別のタキシイが、スピイドをかけて追いかけて来た。濡《ぬ》れた葉子の顔の覗《のぞ》いている車がしばしすれすれになったり、離れたりしていた。見ると、いつか庸三の車が一町もおくれてしまった。今度は心臓の弱い庸三が彼女の車を尾《つ》ける番だった。

      二十二

 世間的にも私生活的にももはや収拾のつかなくなった二人の立場を、擬装的にでも落ち着かせようとして、二人のあいだに結婚|談《ばなし》の持ちあがったのもまたそのころのことであった。そんな心持は庸三が最初葉子の田舎《いなか》へ招かれた時にも、彼女の母たちにはあった。そして庸三の出方一つで母方の叔父《おじ》が話しを決めに来るはずであった。しかし庸三の気持はそこまで進んでいないのであった。今庸三がその気になったのは、長いあいだの痴情の惰性で、利害を判別する理性の目が曇ったからでもあったが、恋愛の惨《みじ》めな頽勢《たいせい》を多少なりとも世間的に持ち直そうとする愚かな虚栄と意地からであった。
「先生が亡くなっても、私がさっそく困らないように心配していただけるのでしたら、叔父も賛成してくれますわ。」
 葉子は言うのだったが、庸三も三つの書店から来る印税の一番小額な分の残額くらいは、それに当てておいてもいいと思った。
 そのころ葉子は子供が海岸に行っている間を、庸三の古い六畳の方を居間にして、プルウストやコレットの翻訳などを読み耽《ふ》けり、その
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