姿を見失ってしまった。庸三も朧《おぼ》ろげに感じている相手が誰であるかを、今なおはっきり突き留めたい好奇心に駆られた。彼女の患部にメスを揮《ふる》った博士《はかせ》がまず彼の興味を刺戟したが、その他にも踊りの師匠の愛人、それから例の雑誌記者などにも疑惑は動いた。しかし何といっても、普通一般の思議を許さないあたりにも勤めている、優《すぐ》れた手腕と人格の持主である博士の生活に、ある新しい刺戟を感じているらしいことは、時々の彼女の口吻《くちぶり》でも解るのであった。そうした地位の高い博士の愛を獲得することも、今まで気むずかしい芸術家ばかりを相手にしていた彼女にとっては、何か朗らかな悦《よろこ》びでなくてはならなかった。もしひょっとして博士が新しいペトロンの役割を演じてくれでもするとしたら、なおさらのことであった。
「また葉子がいなくなったよ。」
庸三は小夜子に報告した。密会や何かのことに、いろいろな場合の体験ももっているに違いない小夜子であった。
彼女はちょうど風呂《ふろ》から上がって、お化粧をすまして帳場に坐っていた。
「あの方どうしてそんなことなさるんでしょうね。先生というものがありながら。」
小夜子は帳場に立てかけた鏡のなかに見惚《みと》れながら言った。
「先生を好きなんでしょう。」
「まあ……たまにはね。」
「いつからですの? 何とも言い置きもなさらないんですの。」
「昨夜かららしいね。」
そして博士のことを話すと、小夜子はにわかに興味を持ち出して来た。
「じゃあ秘密|探偵《たんてい》に頼んでみたらどうです。」
小夜子にもちょっと悪戯者《いたずらもの》らしいところがあった。
「そうね。」
庸三は憂鬱《ゆううつ》になったが、こういう場合一つ掘り下げはじめると、際限なく下へ下へと掘り下げてしまって、どうにも足悶《あが》きのないのが、彼の性癖であった。そしてその刺戟と苦しみを彼にはだんだん享楽するように慣らされてしまうのだった。
「先生これから日本橋のI探偵社に行ってみません?」
「君も行く?」
「え。でも、ちょっと電話をかけてみましょう。」
小夜子は卓上電話の受話機を取った。そして探偵社と約束すると、ガレイジへも電話をかけた。
やがて絵羽の羽織を引っかけ、仏蘭西天鵞絨《フランスビロード》のコオトに黒の狐《きつね》の衿巻《えりまき》を肩に垂れた小夜子と
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