そって、行きつけの支那料理屋で、晩飯を御馳走《ごちそう》しただけだというのだった。記者が葉子の讃美者であるだけに、庸三はちょっと疑念をもった。
「だってああいう人たちには、私などはたまにそういうことをしておく必要があるのよ。私原稿料の前借だってしているのよ。」
庸三はそれもそうかと思って、口を噤《つぐ》んでしまったのだが、その晩もちょっとその辺を散歩するつもりで、二人で旅館を出ると、わざと大通りを避けて区劃《くかく》整理後すっかり様子のかわった新花町あたりの新しい町を歩いた。そして天神の裏坂下から、広小路近くのお馴染《なじみ》の菓子屋が出している、汁粉屋《しるこや》へも入ってみた。よく彼の書斎に現われる、英文学に精《くわ》しい青年の兄の経営している、ちょっと風がわりの店であった。
そしてそうやって歩いていると、いつかまた別れる潮を見失って、彼は葉子の部屋で一夜を明かすのであった。
庸太郎と今一人、最近の英文学に興味をもっているその青年H――と一緒に、庸三の全集刊行の運動をしようとか何とか言って、葉子がまだ近所に一軒|世帯《しょたい》をもちたての時分、いきなり訪問して来て以来、まるで内輪の人のようになって、今は何かに不自由がちな庸三の家政上のことに働いてくれる青年K――も、ちょうど庸三の部屋へ来ていて、少し顔色をかえながら下宿と旅館へ葉子を捜しに行ったのだったが、どこにも見えなかった。
やがてK――青年は、下宿に留守居をしている葉子の小間使のお八重を、庸三の部屋へつれて来た。去年の夏、子供たちについて、葉子の郷里から上京して来たお八重は顔容《かおかたち》もよく調《ととの》って、ふくよかな肉体もほどよく均齊《きんせい》の取れた、まだ十八の素朴《そぼく》な娘だったので、庸三のところへ来る若い人たちのあいだに時々噂に上るのであったが、今庸三の前へつれられて来ると、ひどく困惑して、どこか腹の据《す》わったようなふうで、顔を紅《あか》くして居ずまっていた。
「葉子さんどこへ行ったの? 八重ちゃん知ってるんだろう。」
K――青年は気軽に訊《き》いてみた。そして二三度|詰《な》じってみても彼女は迷惑そうに笑っているだけで、何とも答えなかった。そしてその態度で見ると、庸三の部屋で感ずることのできないような、下宿の部屋でのいろいろの事件を、あまりに知りすぎているので、そんな質
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