々|転《ころ》がりそうになったが、風も吹いていたので、揺れる拍子に窓枠《まどわく》に頭をぶちつけそうになって、その瞬間半分ガラスを卸してあった窓から帽子が飛んでしまった。ちょうどわざと飛ばしたように。
「君ちょっと帽子が飛んじゃったんだ。」
運転士は車を止めて風の強い叢《くさむら》のなかに帽子を捜したが、しかしそれも物の二分とはかからなかった。
駅の灯《ひ》が間近に見えて来た。そして今ちょっとのところで駅前の広場へ乗り入れようとした時、汽車の動く音がした。
庸三は何か悪戯《いたずら》でもしたようなふうで部屋へ戻って来た。
「先生オレンジをそう言って!」
やがて葉子も寝床から起きあがった。
入院するまでに葉子の支度はかなり手間取った。ちょうど婦人雑誌に小説を連載していたところなので、それも二月分ためる必要があったし、瑠美子《るみこ》には何か花やかな未来を約束しておきたかったので、差し当たりいつも新しい道を切り開いて、世間の気受けもいい舞踊家の雪枝《ゆきえ》に、内弟子として住みこませたい念願だったので、支度が出来次第、それも頼みに行かなければならなかった。何よりも母に来てもらわなければならなかった。
葉子は湯河原の帰りにも、汽車のクションで臥《ね》ていたくらいで、小田原《おだわら》でおりた時は、顔が真蒼《まっさお》になって、心臓が止まったかと思うほど、口も利けず目も見えなくなって、庸三の手に扶《たす》けられて、駅脇《えきわき》の休み茶屋に連れこまれた時には、まるで死んだように、ぐったりしていたものだが、やっと男衆の手で、奥の静かな部屋へ担《かつ》ぎこまれて、そこでややしばらく寝《やす》んでいるうちに、額に入染《にじ》む冷たい脂汗《あぶらあせ》もひいて、迅《はや》い脈もいくらか鎮《しず》まって来た。彼女はどうかして痛い手術を逃げようとして、かえって手術の必要を痛切に感ずるようになった。
ある日、葉子は、濃《こ》い鼠《ねずみ》に矢筈《やはず》の繋《つな》がった小袖《こそで》に、地の緑に赤や代赭《たいしゃ》の唐草《からくさ》をおいた帯をしめて、庸三の手紙を懐《ふとこ》ろにして、瑠美子をつれて雪枝を訪問した。雪枝は内弟子に住みこませることを快く引き受けてくれたが、詩も作り手蹟《しゅせき》も流麗で、文学にも熱意をもっているので、葉子も古い昵《なじ》みのように話しがは
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