た。淡い嫉妬《しっと》に似た感情の現われだったことは否めなかった。
「あまり感心しない相手だけれど……。」
「そうでしょうか。でも、もう結婚してしまいましたの。」
「じゃあいいじゃないか。」
「山路が先生にお逢《あ》いしたいと言っておりますのよ。」
「一緒に来たんですか。」
「万藤の喫茶店におりますの。もしよかったら先生もお茶を召し食《あが》りに、お出《い》でになって下さいません?」
庸三は日和下駄《ひよりげた》を突っかけて門を出たが、祝福の意味で二人を劇場近くにある鳥料理へ案内した。しかし二人の結婚が決裂するのに三月とはかからなかった。庸三はその夏|築地《つきじ》小劇場で二人に出逢った。額に前髪のかぶさった彼女の顔も窶《やつ》れていたし、無造作な浴衣《ゆかた》の着流しでもあったので、すぐには気がつかなかった。しかし廊下で彼に微笑《ほほえ》みかけるようにしている彼女の顔が、何か際《きわ》どく目に立たない嬌羞《きょうしゅう》を帯びていて、どこかで見たことのある人のように思えてならなかった。――やがて三人でお茶を呑《の》むことになったのだったが、葉子のこのごろが、生活と愛に痛めつけられているものだということは、想像できなくはなかった。
ある日庸三が、鎌倉《かまくら》の友人を訪問して来ると、その留守に珍らしく葉子がやって来たことを知った。
「何ですか大変困っているようでしたよ。山路さんとのなかが巧く行かないような口振りでしたよ。ぜひ逢ってお話ししたいと言って……。後でもう一度来るといっていましたから、来たらよく聴《き》いておあげなさいよ。」
加世子は言っていたが、しかしそれきりだった。
庸三はその後一二度田舎から感傷的な彼女の手紙も受け取ったが、忘れるともなしにいつか忘れた時分にひょっこり彼女がやって来た。
葉子は潮風に色もやや赭《あか》くなって、大々《だいだい》しく肥《ふと》っていた。彼女は最近二人の男から結婚の申込みを受けていることを告げて、その人たちの生活や人柄について、詳しく説明した後、そうした相手のどっちか一人を択《えら》んで田舎に落ち着いたものか、もう一度上京して創作生活に入ったものかと彼に判断を求めた。
「あんたのような人は、田舎に落ち着いているに限ると思うな。ふらふら出て来てみたところでどうせいいことはないに決まっているんだから。田舎で結婚なさい
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